ゴゴログ、本来はある程度のストックネタを終えたら、時事ニュースに即した本質解説をすることを予定していたのですが、自民党が政権をとってこのかた、許認可権について勘違いも甚だしい某マキコ大臣とか、表面的な理屈で大衆受けを狙うだけの某大阪市長とか、本質論でさくっと切るのにちょうどいい香ばしい人々が、最近あまり表にでてこないので、なかなか筆が進みません。(ルーピーなぽっぽさんなどは、振れすぎてて切るにも値しないし、民主党も問責決議で何したいやら。。)

というワケで、これまた時事ネタでもなんでもないですが、昔から考えていた話をネタとして、集団犯罪の罪と罰のバランスについて考えたいと思います。


ちょうど、2ちゃんねるを見ていたら、参考になる事例がありました。
「高校2年生だった少女は、遊び仲間と約3時間半にわたってAさんの全身を殴ったり蹴ったりし、失血を伴う呼吸不全で死なせるなどした(傷害致死事案)。これについて、水戸地裁は求刑通り3年以上4年以下の不定期刑を言い渡した。」

この事件では、他に「主犯格」とされる別の3人が関与していることや、少女が未成年であることも量刑上考慮されたのだと思いますが、どうなんですかね、これ?長時間に渡って1人を暴行して死なせといて、3~4年って。。

こういう集団的な暴行事件では、主犯格とされる者が最も多い量刑となり、その他の共犯者は、加担割合に応じて量刑が減じられていることが一般的であるように思われます。(しかも、主犯格の量刑も、単独犯の量刑とそう変わらないか、少し軽い印象。。集団責任?)

しかし、いくつかの観点から、こうした量刑判断に対して、ゴゴ個人的には、非常に納得いかない気持ちを感じます。まず、第一に、一人の人間に集団でもって暴行を加えて死に至らしめる行為というのは、単に一人の人間を殺したという結果を超えて、集団でもって一人の人間の自由やと生きる権利を著しく侵害し、個人の人権という、法的観念において守るべき価値(これを「法益」といいます)に照らして、単独犯罪に比して格段に卑劣な犯罪行為だと考えられます。だとすると、集団による暴行・殺害事件については、単独犯罪に比して重い罰を科することが妥当ではないかと考えます。(法益観点)

次に、犯罪抑止のインセンティブから考えても、犯罪行為に至るプロセスにおいて、誰かが行為を止めうる判断力と責任を求められるはずだ、という考え方もできます。単独犯の場合、個人の感情など事情はともあれ、一人の人間がその独特な心理の中で犯罪を行うものであるため、第三者が行為を止める機会はそうないと思われます。しかし、集団犯罪においては、誰かが何らかの加害行為を開始した際、他の人間には集団心理に流されて行為に加わるか、逆にそれを抑止するかといった選択判断の余地があります。ここにおいて、犯罪抑止という社会的責任を果たさない場合には、主犯格と同様に大きなペナルティが発生することを明確にして、犯罪抑止へのインセンティブを高められるのではないか、ということです。(犯罪インセンティブ観点)

この二つの観点を考えあわせると、
・集団的な暴行事件など、複数の人間が集団/組織でもって個人の基本的人権を害する犯罪については、単独犯罪よりも重い罪・量刑とする。
・上記のような集団的犯罪に加わった者については、強要があった等の特別の事情のない限りは、全員に対して等しく、上記の重罰を科する。
とすることが妥当ではないか?というのが、ゴゴの考え方です。

今回の件では、そもそもが傷害致死となっていますが(こんなの、未必の故意で殺人罪にならんのかね?)、これが集団による殺人罪にあたるケースなら、法益観点からも犯罪インセンティブの観点からも、全員等しく死刑または無期懲役でいいんじゃないの、そしたら安易にリンチに加わって人を殺すような事件も減るんじゃないですかね?と、心底思ってます。
(いくらニュースになってもパチンコで子どもを死なす親が後を絶たないのを考えれば、人間なんてそう合理的ではなく、犯罪件数は変わらないという見方もありますが。。。)

ちなみに、豆知識ですが、主犯格と共犯者というのは結構あいまいな言い方で、共同して罪をなすものは、等しく「正犯」者にあたります。上記の少女は、「共同正犯者」であって、「従犯者」ではないですから、単に主犯格でないから責任が低い、ってもんでもありません。

 ※刑法第60条
  (共同正犯)
第六十条  二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

さてさて、ゴゴはかつて法学部生でありながら、ロクに法律を勉強しなかったのですが、どうなんでしょう・・・?量刑に関しては、他の犯罪行為との量刑比較といった横並びがあることくらいは理解していますが、様々なケースにおいて、被害者の人権と、加害者の自律的責任の両面において、そもそも法が想定する「個人」の位置づけが弱いように感じます。これは民法や刑法などの基本的な法律が明治時代に作られていることを考えれば、ある意味当然なんでしょうけど、そう考えれば、憲法なんかよりも、刑法を現代の価値観に照らして見直した方がよっぽど意義あるんじゃないでしょうか。

こういう点でオカシイ、というプロ筋の見方があれば、是非教えてさいませ。