*2015.12.24 一部修正・加筆

「コンピューターが人間の脳を超える日が近い将来やってくる」なんて議論を最近耳にすることがあります。近年続くコンピューターテクノロジーの発達や、統計学をベースにしたビッグデータ解析による予測モデルの発展などを背景として、AI(人口知能)が、近い将来人類の思考能力を超える日がくる、というハナシです。

「2018年頃にはコンピュータ・チップの容量が人間の脳細胞の容量を超える」(孫正義)

シンギュラリティ -約30年後の「何が起こるかわからない1日

ウィキペディア:技術的特異点(Singularity, シンギュラリティー)


さて、本当にそんな日はやってくるのか?

知人がFBでシェアしていたブログ記事(「技術的特異点と仏教的生命観の接点」)に触発されてコメントしたことをベースに、今回は「コンピューターが人間の脳を超える日」なんてものはやってこないことを、哲学的に論証してみたく思います。



上記の記事の中で、「仏教的生命観には、人間には個としての自分と全体としての自分という2つの側面がある」ということが触れられており、これは面白いなと思いました。いきなり結論めいた話になりますが、「コンピューターが人間の脳を超える日なんて来ない」とタイトルで言っているのは、まさに「全」と「個」の関係で、「全なくして個はない」という考えに基づいています。

どういうことかと言うと、引用記事の中での全と個の捉え方とは少し違うかもしれませんが、個人の思考というのは、それ自体が独立して存在しているのではなく、自分の周囲の世界との関係性で生まれてきているとゴゴは考えています。つまり、全と個は本当は切り離せないものだということです。(※)


ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし、何も見えず、何も聞こえず、何の情報も入ってこない、つまり自分の外側に何もない世界に入ったとします。さて、ずっとそこで1年間住み続けたとして、あなたはそこでどんな考えを生みだせるでしょうか?おそらく、過去の記憶を思い出す以外、新しいことは何一つ考えられないと思います。(最初は記憶をベースに多少は新しい何かを考えられるかもしれませんけど。)それ以上に、あなたはもはや「個」というものを失っていると思います。

こう考えると、私たちが「個」と言っているもの、それは主体的な認知や思考と言い換えられると思いますが、それは自分の外的な世界を認知し、その外的な世界との関係性の中で「個」というものを考えているにすぎないと言えます。つまり、「個」はそれのみで独立しては存在しないものである、ということです。

しかし、シンギュラリティというのは、個を独立したものと捉えて、完全無欠な知性をプログラムで作り出すという、ある意味西洋的な思想を前提にした議論だと思います。(西洋思想でも、ネットテクノロジーの世界以外では、こんなピュアな個のあり方は修正されてきていると思いますが)


一方で生身の人間の思考能力の面白い点は、過去の経験や外部との関係性から、そして生きていることに起因するさまざまな苦しみから、必ず何かしら認識に歪みを持っているところだと思います。場合によってはそれが誤認や妄想となって判断の質を低下させますが、一方でそうした認識の歪みが、人とは異なる新しい物の見方や芸術的な発想につながっており、そこに人間の創造性の源があるのだとゴゴは考えています。

そう考えると、個々に異なる認識の歪みも含めた全人類の思考能力を超越した知性というのは、人間が持ちうる全ての認識パターンを把握した上で、そのどれよりも優れた認識レンズを搭載する、あるいは1人の人間では持ち得ないほどの多様な認識レンズを使い分けるものではならないはずです。

そしてそうした個の知性は外部との関係性から生まれてくるわけですから、人間の思考能力をはるかに越えたAIを作り出すためには、究極的に言えば開発者は先ずこの世界のあり様すべてを完全に理解し、その世界との関係性で生まれる得る人間の思考のパターンもすべて解明した上で、それよりも優れた思考・認識構造をコード化してAIに搭載する、あるいはAIが自ら獲得する学習アルゴリズムを開発することが必要になります。これができれば、あとは莫大な計算力で完全に人間の能力を完全に超越できます。


しかし、世界の全てと、その中で生まれる思考のパターンを理解し尽くすというのは、それこそ神様でなくては不可能です。なので、AIが人類を超えることはない、という結論に至ります。(以上、証明終わり。)

・・・とまあ乱暴なロジックでキチンとした証明にはなってないわけですが(ここまで書いといてそれかよ!というツッコミも聞こえてきそうですがw)、人間の知性というのは一体何なのか?という哲学的命題が完全に解明されない限り、シンギュラリティなんざチャンチャラおかしいわ、というのが個人的な見方です。そして多分人間が人間を分かりつくす日なんてやってこないでしょう。これは単に希望的観測にしかすぎませんけど。

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最近、Techな世界では、昔の「人間が自然を管理する」的な思考を繰り返しているような気がします。それはある意味やんちゃで「何がでてくるか?」と面白いのですが、一方でこうした「全と個」を考えるといったような、人文的思想が欠落しているように感じます。そうした偏った物の考え方では、どこかで破綻するはずです。

ちなみに、シンギュラリティの議論の中で懸念されているように、AIが偏った思考パターンと能力でもって世界に混乱をもたらすことはあるかもしれませんが、そうなればまさに、AIが人間の思考よりも劣っていることの証明でもあるかと思います。

かといってAI開発に否定的なワケではなくて、むしろAI開発の過程で人間の知性についての理解が進めば、人工知能のみならず人類そのものにとっても有益な研究成果になるとむしろ期待しているんですけどね。。

いずれにしろ、AIが人類全体の思考能力を完全に超えるなんて日はたぶん永遠にやってこないでしょう、というハナシでした。