ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

タグ:教育論

※この記事は、「大学に行って何の役に立つのか?」(1~3)という記事のおまけ記事です。

数学・哲学の重要性は分かったものの、大学でも教えてくれないのに、じゃあどうやって勉強するの?というところまで語ってこそ、実践的な意味があろうというもの。おまけ編として、自分がどうやって学んできたのか、具体的な方法を紹介します。

<数学>
・森毅先生(今は亡き京大の名物数学教授)の、ほどほどに数学っぽい適当な文庫本エッセイを読む。
(このあたりとか?もう手に入るのが少なそうですね。「居直り数学のすすめ」とか良かったと思うんですけど。)
  数学受験術指南 (中公文庫)

・大学の数学(増刊号だったかな?)で、「問題を見たらすぐ解説を読む」、を繰り返す。

<哲学>
・竹田青嗣の哲学入門を読む。
  「自分を知るための哲学入門」 (ちくま学芸文庫)


「え、たったこれだけ?」 はい、そうです。(笑) ここまで色々エラそうなこと語っている割に、数学・哲学に関しての大学までのインプットなんて、こんなもんです。なので、それぞれ専門でやってる方からすれば、自らの土台としてもっている知識量は、基礎も基礎、初心者レベルです。前回、大学教育も工夫すれば、内容は簡単で良いのだ、と書きましたが、自らの経験から自信をもって言えます。 (単なるサボりの言い訳?)


以下、一応の補足。半分はヨタ話なので、勉強したい人は以上まででも十分です。

森毅先生の本は、中学生くらいの時に読んだと思うのですが、その中に、「数学を学ぶには、近所の山で遊ぶように、ただ近道をいこうとせず、あっちいったりこっちいったりするのがええ。初めは迷い迷いでも、あちこちで遊んでいるうちに山の中のことは全体が頭に入る。それを近道だけ通るように正解ばかり求めてたら、結局は何も分からず通り過ぎるだけや」(ホントにこんな感じの文体)みたいなことが書かれていた記憶があります。

実は、自分はずう~っと数学テストはダメダメで、高校時代は洛星高校という、京都にあるまあそこそこの進学校の中とはいえ、赤点連発・偏差値40台でどうせ出ても分からんからと木曜1限・2限と続く数学の時間は下宿先でサボりを決め込み、3限の体育から徒歩5分の学校に行く、なんて生活をしてました。これ、誇張抜きにホントの話。

ただ、モリキ先生の本のおかげで、出来ないにしても数学そのものは嫌いではなかったというか、アレルギーみたいなものはなく、なぜか興味が湧いた数列だけは徹底的に勉強したりしつつも、「近所の山」を探索することなく、別のとこで遊び呆ける日々でした。サボりなうえに高校生から下宿生活してたもんで。。

で、当然浪人。さすがにちゃんと勉強せなあかんなと、いつものごとく1周おくれて尻に火がついて、手に取ったのが「大学への数学」なわけです。この本、基本は難関大理系向きな本とされているのですが、難しい数学の問題に対するビューティフルな解答方法が、とても丁寧に書かれているわけです。ごちゃごちゃ汚い数式計算をさせるような解法ではなく、これこそ数学!(数学好きじゃないと分からんか)ってな感じの、切り口のキレイな解き方がたくさん載っているので、実は、計算とか大嫌いな数学苦手な人向きと言えます。

とはいえ、数学できない人間がいきなり挑んで解けるわけはありません。そこで、サボりマンらしくとてもいい方法を編み出しました!それは、 「問題を読み込んだら、即座に解答を見る。」 だって、解き方分からんのだから、ウンウン悩んでも時間のムダです。で、バンバン問題をこなしました。といっても、問題読んで、解説見て、なので、解けない問題の前で悩み続けるようなシンドさはありません。

「この問題って、こういうアプローチで解いたらええんか、なるほど。」「お、これ前見たのと基本同じアプローチでとけるな。」と、問題&解説をたくさん見てると、パターン認識が高まります。1週間くらいだったかで、ひと通り本を目を通したら、2週目は問題みてからさっとアプローチと大体の数式をイメージするようにしてから、やはりすぐに解説を見る。イメージがあっているかの答えあわせですね。

実際の計算をして完全に解こうとするとやはり時間がかかるので、「数学の問題へのアプローチ法」についてのパターン蓄積をつづけました。結果、現役時代、校内偏差値40台だったゴゴ君は、浪人生秋の京大模試で、全国3位・偏差値80台(ドヤ顔)という、まさにドラゴン桜もびっくりな結果をたたき出したのです。

なんかズルい、邪道じゃない?と思った人もいるかもしれませんが、振り返って考えても、この勉強法は「教養」として数学を学ぶ人には最良の方法だと、自信をもってお勧めできます。もちろん、ある程度はじっくり考える・問題を完全に解くということも必要ですが、「パターン認識」というのは、論理的思考力を高める上で非常に重要なカギだからです。

例えばコンサルがなぜコンサルとして活躍できるかと言うと、かなりの部分はパターン蓄積によるものと言えます。いわゆる地頭力、フェルミ推定的な思考力が重要と言われますが、これも詰まるところ、似たような問題をやってれば、多分誰でもそこそこ出来るようになります。その上で、たくさんのケースにあたることによって、さらにビジネス実践的なパターンをさらに蓄積しているのです。

とはいえ、数学の勉強はそれなりに時間がかかりますし、やはり学生時代じゃないとやり通すにはしんどいです。大学受験の時が、必要に迫られるので一番最適ですが、数学やらずに大学生になった人は、まだ間に合うのでぜひやってみてさい。社会人の人は。。。もし気合があるならトライしてみてください。


逆に、哲学の「勉強」は、ある意味超簡単です。上で挙げた「哲学入門」とか、その他気が合う入門書レベルの本を読めば、インプットは終わりです。社会人になってからでも、すぐにできます。ただし、哲学的思考というのは、哲学的なスタンスで思考を重ねることそのものなので、磨いていくのにとても時間がかかります。仕事や日常でいろんな問題にぶつかりながら、自分の身の回りのモノゴトを、表面的なところで終わらせずに、本質や価値観というレベルで見つめることを何度も経験しながら、おそらく死ぬまでずっと深まっていくものです。

なので、勉強するのに遅すぎることはありませんが、やはりできるなら、若いうちから哲学的な思考のスタンスを身に付けておく方が、その後のいろんな経験の中で思考を深められる機会が増します。
※関心あれば、西研先生のホームページなんかもおススメ。
  西研ホームページ


かなり長くなってしまいましたが、ゴゴログでいつまでも教育論をやりたいわけではないので、教育関係の話は全部吐き出して、いったんこれで終了です。

(この他、教育関係については、学校の組織マネジメントや文教政策のマネジメントという話も一応あるのですが、これはマネジメント論の中で、ひょっとしたら、いずれ。かわりに一冊書籍を推薦しておきます。
・岡本薫  日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

これを読めば、ゴゴが考える、学校組織や教育政策マネジメント関する課題感はカバーされてます。そのあたり関心ある方はどうぞ。)





ゴゴログの記念すべき1本目のネタは、「教育」についてです。

「教育論」については、さまざまな切り口がありますが、まずは教育そもそも論から始めたく思います。教育議論をするにあたっての、一番の土台となるパートです。

で、まずは質問です。

義務教育を中心とする、「公教育」(=税金などを投入して、社会として支えている教育サービス)の、顧客と成果は何だと考えますか? 社会の中のシステムとしての教育を通じて、果たすべきミッションはいったい何でしょうか?



顧客は、個人個人の子どもでしょうか?それとも親ですか?そういう側面も完全に無視はできないでしょうが、自分は基本的にはそれは違うと考えています。公教育の顧客は、社会そのもの、あるいは我々みなさん全員、と考えるのが妥当です。 

少し漠然とした話にピンとこないかもしれませんが、義務教育は無償で提供され、その費用はすべて税金で賄われています。 つまり、我々社会全体が教育におカネを支払っています。逆に、子ども本人も親も、基本的には何の直接負担をしていません。

ではなぜ、そのようなシステムになっているのか? それは、現代社会のありようと深く関わっています。近代以降の社会というのは、封建的で身分が固定された時代とは全く違います。何が全く違うかと言えば、「個人の自由」という根本思想をベースに成り立っている点であり、そのために、個人個人が、自らの選択で自らの職業を選べるという可能性を、「自由な社会」を成り立たせるなかでの中心的な価値の一つに置いています。

ではでは、個人が自らの選択で職業を選ぶことを可能にするためには、何が必要か・・・?そう、そのために必要最低限な知識・能力のベースを、貧富に関わらず、あまねく提供するために始まったのが義務教育という社会制度なわけです。これがないと、実質的な自由は実現されず、不平等が社会の不安定性をもたらすだけの、名ばかりの「自由社会」になってしまいます。

つまり、公教育の成果は、個人個人に対して平等に、職業選択のための必要最低限の機会を担保することであり、ミッションは、その成果を通じて、自由で平等な社会を維持することなわけです。 



世に語られる「教育議論」においては、このもっとも重要な出発点、教育議論においておさえるべきスジを欠いたものがかなり多いことが、「教育問題」におけるもっとも大きな「問題」と、個人的には思えます。

子どもの自由・個性を過度に信奉する議論や、学校は親のニーズにこたえるべきとの教育=サービス業議論は論外として、学校選択制やはたまた教育バウチャー制が真面目に語られているのを見ると、立派な肩書きの論者に、「あまねく平等な機会を与える」という基本的な価値観を、どう考えているのかと聞いてみたくなります。

少なくとも義務教育は、どんなに改善の効率が悪くとも、一律に底上げを目指していくべきものであって、子どもや親の「個人的利益」をもとにした競争原理をもって改善を図るべきものではないと考えます。論点は、公教育における機会平等vs.個人の受益権ということになりますが、先にのべた公教育の意義を考えれば、答えは自明です。(教師間の評価をもとにした競争原理は、ある程度あってしかるべし、とは思いますが。)

とはいえ、進学率が向上し、義務教育だけでは十分な職業選択が難しくなっているという時代の進展に加え、幼少時からの受験を通じた私学進学や上位大学における親の年収帯の偏りなど、貧富の差による「教育格差」が現実のものになってきていることは、結構差し迫った問題だと思います。

財政問題にかかわるために簡単ではないものの、高校教育の実質無償化や奨学金制度の充実など、「自由な社会の維持」の観点から必要な政策にフォーカスして、政府は問題解決に取り組んでほしいと思います。


(参考)
ちなみに今回まとめた「教育と自由な社会の関係」的な考え方については、哲学論を専門とする西研(にし・けん)先生の著作や論述をベースとして理解を積み重ねた部分が多いです。多謝。
 ・哲学は何の役に立つのか (新書y (102))


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