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ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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感性

「超個人的」アート論 ~いま、アートに期待すること~

今回のゴゴログは、「モノゴトの本質」というブログテーマをちょっと無視して、ゴゴの個人的なアート論についてのお話です。過去のエントリーでも、アートや感性に関連した記事をあげていますが、あらためて、なぜアートに関心をもつのかについて、書いてみたいと思います。

まず、「アートに関心がある」といいながら、じゃあどの作家の、どんな作品が好きなの?と問われても、ゴゴは実は大して詳しくありません。例えば絵画なら、基本的には写実的な作品よりは抽象的な描画の方が好きで、古典的な作品よりは、現代のアート作品に関心がある、という程度のスタンスで見ているくらいです。

その程度でなんでアートが好きかというと、これから述べることと少し矛盾した「理屈っぽい」話になるのですが。。人間には理性と感性がありますよね。その中で、現代というのは、理性的なものに価値を寄せすぎて人間的に窮屈になっているのでは、というゴゴの個人的な仮説認識とセットになっています。現代社会というは、近代以降の科学の進歩を中心に、合理性・論理性を 磨き上げ、その延長の中で発展してきた社会です。そのため、感情的なふるまいよりも論理的な判断が重視され、「間違いでないこと・正解であること」こそが、価値あるものであるという考え方に偏っていると、個人的には捉えています。

しかしながら、人間というもの、理性だけでは成り立ちえない存在だと思います。ロジックだけですべての物事の良し悪しがきまる世の中って、楽しいですかね?理屈に合わないと分かっていても、つい感情や感性を優先して行動してしまうことに、結構面白さがあるものだと思いませんか? そして、そうした自らの自由な感性に従って個人が行動した先に、それまでの理屈では見えていなかった、あらたな世界や価値観が立ち現われてくることもあります。これこそ、世の中に進化やイノベーションをもたらす源泉ではないかと、勝手な仮説を持っています。

なので、これも何度も書いていますが、ロジカルシンキング万歳、統計学万能、みたいな「論理が全て」といった考え方は大嫌いで、これに対するアンチテーゼとして、アートの存在価値に期待を寄せているという、「理屈っぽいアート好き」ということなのです。アート=芸術というのは、究極的には、論理=言語を介さない表現行為であり、舞踏、音楽、絵画・彫刻など、その価値が言葉による説明を超えたところにあるもの、というのがゴゴの個人的解釈ですが、その存在や表現自体が、理屈によらずに直接的に他人の感性に訴えかけ心を動かし、論理では引き出せない人間的エネルギーを引きだす、これこそアートの価値だと思っています。

さらに、こうした理解のもとで、「現代アート」の価値が何かと考えると、一見して理解しがたい表現の中に感じる心地よさや楽しさ、あるいは逆の不快感が、なぜそう感じられるか、あるいはその作家がなぜそうした表現手法を取ったのかを、逆に論理的に掘り下げていく(=批評する)なかで、それまでのリクツでは気づかれていなかった、人間行動や心理を動かす新たな要素や方法論の理解につながるカギになりうる存在である、というのが これまた個人的な解釈です。


さて、このように考えていくと、現代アートの「現状」については、実は不満を感じています。それは、社会の論理偏向に対峙する存在として、あるいは、人間の内側にある未知の行動・反応を引き起こす、「感性のイノベーター」としての役割を正面から引き受けることなく、「私小説」的な個人ワールドを、あえて意味不明な表現に落とし込み、場合によっては深い意図もなく「無題」と銘打って、まるで他者を突き放したようなスタンスで小さな宇宙の中で満足しているように感じられてしまう作品が、少なからず見受けられるからです。別の言い方をすれば、自らの外の世界に対する「問題提起」が感じられない、ということです。

自分自身を含めた「普通の人」が不勉強で単に理解が足りていないだけかもしれませんが、一方で 現代のアートシーンも、世の中に対して、正面から感性をゆさぶる表現やコミュニケーションにチャレンジしているかと言えば、そこは全体論としては、努力不足だと言って過言ではないと思います。(もちろん、個々の作家では、そうしたチャレンジに心血注いている人もいると思いますが。)ある意味、工業製品であるiPhoneの方が、説明を必要としないシンプルかつ直感的な操作方法に意外なオドロキと心地良さをもたらした点で、よっぽど「芸術的」であったように、ゴゴには感じられます。

芸術的な創作活動というのは、個人の内面から湧き上がる独特の感性の発露・表現であることに価値があるのであって、他人や世間を驚かせることのみを狙った過激な表現をするは本末転倒ですが、やはり、単に個人的世界の表現にとどまることなく、人間社会にとって何らか新しい価値を切り開いて見せるのだというプライドをもってチャレンジしてほしい、それがゴゴが現代アートに求めることです。そして、そうしたアートが発展する素地は、今の日本に満ちてきていると、勝手に期待しています。

これからはアートの時代ですよ、多分。


以上、超個人的なアート論でした。 

アートの質 vs. 感受性/コンテキストの欠如

昨晩、友人がシェアしてくれた記事に絡んでのよもやま話です。ほぼ個人的感想文ですが、FBのコメントだけで流してしまうのはもったいなく思ったので、書き留めておきます。

発端のネタは、朝の通勤時間の地下鉄の駅で、ひっそり一流のバイオリン奏者が演奏していたところ、誰もさして気にかけずに通り過ぎてしまった。というストーリーです。

http://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200422383787211&set=a.2168156208503.2153830.1384647064&type=1

この記事での意図は、一般の人々の、忙しさにかまけての感受性の低さを課題視するもののようですが、これに対して、友人は、音楽の質の良し悪しに、実はそれほどの価値がなくて、みんな一流の肩書きや豪華なシチュエーションをありがたがっているだけかもしれないね、とコメントしていました。


これを読んで、どっちの言ってることも理解できるけど、どっちに立っても、ちょっと違和感あるなあと感じて、これはなかなか面白いテーマと、少し考えこみました。

この対立するモノの見方の間に、ふと浮かんだのは、「間主観性」という哲学的概念です。ゴゴもキチンと勉強したわけではなく、以前紹介した「哲学入門」で仕入れた程度の知識ですが、超ザックリ言えば、現実世界に絶対的な真理は存在せず、ただ個人と個人の関係性の合間(間主観)に事実が存在する、という考え方です。

ここに何か比喩的なヒントを得て、自分なりに至った答えは、演奏の質に本来的価値がないワケでも、通り過ぎる人々の感受性が低いワケでもなく、「コンテキストの違い」、つまり、一流の演奏がキチンと味わわれるのは、単に朝の通勤時間の駅ではなかっただけのこと、という考えです。

もしこの演奏家が、初夏の金曜日の夜7時、例えば絶妙な雰囲気の日比谷公園の噴水の前で同じように演奏したとして、そこにたまたま居合わせた人たちは、ひょっとしたら高いチケットを買って、着飾ってコンサートに行く人にも増して、深く彼の演奏を堪能できるかもしれない。

結局は、伝え手と受け手、どちらがどうという話ではなく、両者がうまく噛み合う関係性、コンテキストを設定できるか?ではないかということです。

(その意味で、この元記事は、そういうセッティングで、実は普通の人々を一段低くみている企画者こそが、自らの浅さをさらけ出してとるんじゃないのw、とも感じました。)

そして、こう書いている中で、まさに現代アートが抱える問題というのは、このコンテキストの欠如だと思い至りました。「意味が分からない芸術家」と、「感性が低く価値を知らない普通の人々」が、互いに了解可能なコンテキストを用意できれば、もっと広くアートが楽しまれるようになるんじゃないかと。

なんか最後は昨日の記事と妙に結びついてしまいましたが、アートとコンテキスト、個人的にもっと追求してみたく思います。
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