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ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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哲学

若者よ、客観性ではなく主観を磨け! ~イノベーションが求められる時代に真に必要とされる能力(その3・完結編)~

その1その2を読む)
一連の「主観シリーズ」の3回目(完結編)です。

前回記事まででは、以下について述べてきました。
・最近ホットな「デザイン」に関わる人たちと話す中で、客観的な正しさよりも、個人としてモノゴトをどう見るかという主観の強さが、新しい価値創造を行っていく中でもっと必要になってくると思われ

・主観の強さというのは、単に「私は~が好き/思う」というレベルにとどまらず、なぜそう感じる/思うのかをもう一段掘り下げて、そう感じたり思っていることの土台になっている、個人の根源的な価値観まで掘り下げられていること。

・そうした「主観の磨き上げ」ためには、「批評」という行為が有効であること

ここまでで、「主観が大切」という考え方もあるんだなとか、「主観といっても、好き/思うだけではないレベルがあるのだな」ということは受け止めてもらえるのではないかと思いますが、では、そうした強い主観が、本当にイノベーションのために欠かせないのかという点については、まだよくわからない、というところかと思います。


世の中は客観的な正しさで出来ているのか? 
皆さん、上記のとおり問われたらどう答えますか?ゴゴの好きな哲学の世界に寄り道しますが、ちょっと考えてみてください。西洋哲学は、ギリシャ哲学における「世界は何で出来ているのか?(火・水・数・・・)」という思索から始まり、この世の中の事象を成立させている決定的な原因(=真理)を探ろうとしてきました。しかし、この考え方を突き詰めていくと、人間の運命も何か(例えば、神)によってあらかじめ決定されている、という考え方に行きつきます。

しかし、心ある人間として、すべてが運命的に決められているなんていう考え方はどうも気に食わない。やはり、人間たるもの自らの力で人生を切り開いていくのだ、という考え方の方がすっきりするし、生きやすい。ただ、こうした自己中心の考え方もつきつめていくと、世の中に存在する「客観」と自らの「主観」が対立し、ひどくなると世の中のすべてが疑わしいという独善的な懐疑主義やニヒリズムに陥る危険性があります。

哲学の世界では、こうした客観的真理が存在するのか・しないのかが大きなテーマとなって長い間いろんな議論・思想が生まれてきたのですが、 フッサールという哲学者は、「間主観性」という考え方でこの対立的問題を解決しようとしました。それは慨して言えば、人間の認識の外にあらかじめ客観的真理が存在するのではなく、個々の主観同士が同じモノをみて、そこに共通の了解が産まれた時にそれが真理となる、というという考え方です。(自然科学的な法則も、人間の認識によって自然現象に秩序づけているだけ、という考え方。)

つまり、フッサール哲学(現象学)では、自らの主体的な自らの在り様(主観)を前提としながらも、懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく、他者と共有できる客観的世界が成立することを示したのです。この考え方は、非常に面白いと思いませんか?世の中は「客観的な正しさ」で出来ているのではなく、「人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてただ作り出されるもの」(竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」p.68)なのです。

そう考えれば、自分のやろうとしていることが正しいのか、本当にあっているのかを悩むことには実はまったく意味がなくなります。よく、ベンチャースピリットの一つとして、「パラノイアだけが生き残る」(アンディ・グローブ)が引き合いにだされますが、それは、「本当がどうかわからない事を、恐怖心を振り切ってトライする」というイメージではなく、自分が「それは本当である/世の中にとっての普遍的価値がある」と心の底から信じることを、他者からの共通理解を得られるまでやっていく、ということのように思われます。


イノベーション時代における「主観の強さ」の意味
もはやあまり説明する必要もない気もしますが、上記で述べたように、世の中にイノベーションを起こそうとするような試みにおいては、世の中の常識ではなくても、「それは本当である/普遍的価値がある」という確信が自らの中に存在していなくては何も始まりません。

しかも、自らの中の確信は、「間主観性」を引き合いにだせば、世の中の他者からの共通理解を得て初めて意味ある真実となるわけですから、これをきちんと他者に説明をして、納得を引き出していかなければなりません。そのためには、「私は~が好きだ/思う」レベルでは、未だ世の中の常識ではない「未来の真実」を、他人に理解させることもできないはずです。

なぜそれが好きか、そう思うかを自らの価値観まで掘り下げて理解していないと、他人に説明することも難しいでしょうし、どちらにしても理解されにくい新しい価値観を、他人に拒否されつづけてもあきらめることなく試し続けるためには、自分の中での明快なロジックとしてを伴っての「それが大切だ」という、「強い主観」が必要になります。

しかしながら、前回述べたように、自らの主観をきちんと掘り下げて語れる日本人は、あくまでもゴゴの個人的感覚ではあるものの、非常に少ないと思います。でも、だからこそ、これからの時代を切り開いて行こうとする若者にとっては、「強い主観」を磨くことの価値が非常に高まってくるとゴゴは思うわけです。

ロジカルシンキング的なスキルはもちろん大切ですが、それでもって客観的な正しさのみを検証することに埋没することなく、自分は世界をどう捉えているのかといった物の見方や、自分が大切に思うことの根源となる価値観を掘り下げていくような「主観の磨き上げ」に投資していくことは、イノベーティブなチャレンジに挑戦しようとする人にとって、絶対これからの時代で効いてきますよ!

 
P.S.
これを書いてる本日は2013年の大晦日。
(買いだしやらの年末家庭進行のさながら、早朝起きだして書いてます。。我ながら何してんだか。) 

強い主観にあふれてイノベーティブな可能性に満ちた日本の未来に思いをはせながら・・・皆様よいお年を!



※今回の参考図書



若者よ、客観性ではなく主観を磨け! ~イノベーションが求められる時代に真に必要とされる能力(その2)~

前回記事の続きです。前回、新しい価値を生み出していくことが求められる時代においては、客観性よりも主観の方が重要になる、というハナシをしていました。では、主観とはそもそもいったい何なのか、どうすれば「主観を磨く」ことができるのか、ということを今回の記事では掘り下げます。

主観とは何なのか
さてまず、主観、主観的であるというのは、どういうことでしょうか?普通に考えて、主観というのは、「私は~と思う、感じる」という個人的な認知や感覚です。他方で、客観というのは、世の中の真実・真理や常識に照らし合わせて、誰からみても多くは正解・妥当とされるであろうことをより分ける判断です。では、主観的な「私は~と思う、感じる」という感覚は、いったいどこからやってくるのでしょうか?

例えば、ゴゴは一時、ジャズを好んで聞いていました。「私はジャズが好きです」ということですね。じゃあ、なぜジャズが好きなのか?「好きだと感じたんだから好きなんだよ」、こういうオレ様ルール的な態度(※)から一歩進んで考えてみます。そうすると、「アドリブ効かせたり、少しテンポやコードをずらしたりといった、ルールにとらわれない自由なスタイルや偶発性、そこから生まれる感情的なエネルギーに魅力を感じる」と、一歩掘り下げた説明もできます。つまり、ゴゴの主観は、「自由でルールが決まっていないこと、感情的なこと」に魅力を感じており、その一つの表れとして、ジャズを好んでいる、と言えます。

(※最近、「ヤンキー消費」がちょっとしたホットコンセプトになっているようですが、ヤンキー文化にありがちな、こうしたオレ様ルール的な考え方も拡大していくのだとすると、さらに日本の先行きが心配になってきます。。)

しかし、同じく「ジャズが好きです」という別の人に、同じようになぜかを掘り下げて聞いた場合、例えば、「ジャズの持つ多彩でメカニカルなコード体系や、理知的な雰囲気が快い」と答える人もいるかもしれません。この人は、ゴゴとは違うこの人なりの主観でジャズの魅力を捉えています。

つまり、主観というのは、その人固有の価値観によって、自分の外側に存在する対象の良い-わるいや、美しい-美しくないといった価値判断をする姿勢であり、「主体的なモノゴトの捉え方そのもの」といえます。


どのように「主観を磨く」のか-批評するということ
前段のように見ると、主観的といっても、「僕はジャズがクールだと思う」「私はクラシックが好きです」「俺はヒップホップが好きなんだよ」という、「いわゆる主観的」な態度から、一歩掘り下げた在り様があることが分かったかと思います。では、客観的な論拠なく、なんとなく自らがこう思う、こう感じるということは誰にでもあると思いますが、それがどこからきているのか、どんな価値観やコンセプトに基づいているのかを説明できるでしょうか?

非常に個人的な感覚ですが、自らの価値観を掘り下げて主観を語れる日本人は、かなり少ないように思います。モノゴトの考え方や感じ方を掘り下げていく行為というのはまさに哲学的な行為ですが、こうした「正解のない」ことを突き詰めて考える訓練は、日本の通常教育の中ではおこなわれていません。もちろん会社に入ってもそんなことは求められません。すでに世の中に存在する知識、データ、枠組みを組み合わせて、正解を出すことのみを求めてきた結果ですね。(それはそれで、時代的な合理性があったと思いますが。)

しかし、こうした価値観のベースが確立されていない「主観」というのは、非常に脆いものです。ただただ「僕はジャズがクールだと思う」「俺はヒップホップが好きなんだよ」なんて言い争うのはさすがに非建設的ですし、それ以上語るコトバをもたなければ、主観的な「好み」は、個人的な趣味の範疇として、内心にとどめ置くことが妥当になってしまいます。さらにひどい場合、個人の中に主体的な価値軸が育たないために、他人の評価や世の中の流行にのることでしか自らの好みをカタチ作れないとなれば、画一的で表面的な社会集団やマーケットしか生まれない=イノベーションが起きにくい、という状況につながってしまうとゴゴは考えます。

これが、前回記事の中でロンドンのデザインファームの知人から言われた、「日本人は主観的な部分が弱い」ということにつながっているのだと思います。ではどうすれば主観を磨けるかと言えば、すでに上記に見たように、自分が思ったり感じたりすることの核心的な根っこを、きちんとコトバでとらえる訓練をするということです。これは、さまざまな事象に対して、「批評」を行うということで実践できます。

批評ということは、なんでもかんでも批判することと思われがちですが、それは違います。ゴゴが愛読する「哲学は何の役に立つのか」(西研、佐藤幹夫)から、以下の一節を紹介します。

「マンガでも映画でもいいのですが、なぜかあの主人公はカッコいいよ、こっちはダサいよ、と感じる。じゃあその『カッコいい』をどんな言葉にできるか。言葉でいうためには、自分の感触に向き合ってそれを見つめなおす必要がある。そして、それを他人に伝えて対話していく。そのことによって、自分の価値観を自覚的に検証して、鍛えていくことができる。」(同書P.86)

このゴゴログも、こうして考えると自分の主観を鍛えるためにやっているようなもんです。


こうした主観の強さが、どのようにイノベーションを生み出すことにつながっていくのかという点についてまで書きたかったのですが、またまた長くなってしまうので、「次回に続く」ということで。





「コンピューターが人間の脳を超える日」なんて、やってきませんよ ~シンギュラリティを哲学的に反証してみる~

*2015.12.24 一部修正・加筆

「コンピューターが人間の脳を超える日が近い将来やってくる」なんて議論を最近耳にすることがあります。近年続くコンピューターテクノロジーの発達や、統計学をベースにしたビッグデータ解析による予測モデルの発展などを背景として、AI(人口知能)が、近い将来人類の思考能力を超える日がくる、というハナシです。

「2018年頃にはコンピュータ・チップの容量が人間の脳細胞の容量を超える」(孫正義)

シンギュラリティ -約30年後の「何が起こるかわからない1日

ウィキペディア:技術的特異点(Singularity, シンギュラリティー)


さて、本当にそんな日はやってくるのか?

知人がFBでシェアしていたブログ記事(「技術的特異点と仏教的生命観の接点」)に触発されてコメントしたことをベースに、今回は「コンピューターが人間の脳を超える日」なんてものはやってこないことを、哲学的に論証してみたく思います。



上記の記事の中で、「仏教的生命観には、人間には個としての自分と全体としての自分という2つの側面がある」ということが触れられており、これは面白いなと思いました。いきなり結論めいた話になりますが、「コンピューターが人間の脳を超える日なんて来ない」とタイトルで言っているのは、まさに「全」と「個」の関係で、「全なくして個はない」という考えに基づいています。

どういうことかと言うと、引用記事の中での全と個の捉え方とは少し違うかもしれませんが、個人の思考というのは、それ自体が独立して存在しているのではなく、自分の周囲の世界との関係性で生まれてきているとゴゴは考えています。つまり、全と個は本当は切り離せないものだということです。(※)


ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし、何も見えず、何も聞こえず、何の情報も入ってこない、つまり自分の外側に何もない世界に入ったとします。さて、ずっとそこで1年間住み続けたとして、あなたはそこでどんな考えを生みだせるでしょうか?おそらく、過去の記憶を思い出す以外、新しいことは何一つ考えられないと思います。(最初は記憶をベースに多少は新しい何かを考えられるかもしれませんけど。)それ以上に、あなたはもはや「個」というものを失っていると思います。

こう考えると、私たちが「個」と言っているもの、それは主体的な認知や思考と言い換えられると思いますが、それは自分の外的な世界を認知し、その外的な世界との関係性の中で「個」というものを考えているにすぎないと言えます。つまり、「個」はそれのみで独立しては存在しないものである、ということです。

しかし、シンギュラリティというのは、個を独立したものと捉えて、完全無欠な知性をプログラムで作り出すという、ある意味西洋的な思想を前提にした議論だと思います。(西洋思想でも、ネットテクノロジーの世界以外では、こんなピュアな個のあり方は修正されてきていると思いますが)


一方で生身の人間の思考能力の面白い点は、過去の経験や外部との関係性から、そして生きていることに起因するさまざまな苦しみから、必ず何かしら認識に歪みを持っているところだと思います。場合によってはそれが誤認や妄想となって判断の質を低下させますが、一方でそうした認識の歪みが、人とは異なる新しい物の見方や芸術的な発想につながっており、そこに人間の創造性の源があるのだとゴゴは考えています。

そう考えると、個々に異なる認識の歪みも含めた全人類の思考能力を超越した知性というのは、人間が持ちうる全ての認識パターンを把握した上で、そのどれよりも優れた認識レンズを搭載する、あるいは1人の人間では持ち得ないほどの多様な認識レンズを使い分けるものではならないはずです。

そしてそうした個の知性は外部との関係性から生まれてくるわけですから、人間の思考能力をはるかに越えたAIを作り出すためには、究極的に言えば開発者は先ずこの世界のあり様すべてを完全に理解し、その世界との関係性で生まれる得る人間の思考のパターンもすべて解明した上で、それよりも優れた思考・認識構造をコード化してAIに搭載する、あるいはAIが自ら獲得する学習アルゴリズムを開発することが必要になります。これができれば、あとは莫大な計算力で完全に人間の能力を完全に超越できます。


しかし、世界の全てと、その中で生まれる思考のパターンを理解し尽くすというのは、それこそ神様でなくては不可能です。なので、AIが人類を超えることはない、という結論に至ります。(以上、証明終わり。)

・・・とまあ乱暴なロジックでキチンとした証明にはなってないわけですが(ここまで書いといてそれかよ!というツッコミも聞こえてきそうですがw)、人間の知性というのは一体何なのか?という哲学的命題が完全に解明されない限り、シンギュラリティなんざチャンチャラおかしいわ、というのが個人的な見方です。そして多分人間が人間を分かりつくす日なんてやってこないでしょう。これは単に希望的観測にしかすぎませんけど。

***

最近、Techな世界では、昔の「人間が自然を管理する」的な思考を繰り返しているような気がします。それはある意味やんちゃで「何がでてくるか?」と面白いのですが、一方でこうした「全と個」を考えるといったような、人文的思想が欠落しているように感じます。そうした偏った物の考え方では、どこかで破綻するはずです。

ちなみに、シンギュラリティの議論の中で懸念されているように、AIが偏った思考パターンと能力でもって世界に混乱をもたらすことはあるかもしれませんが、そうなればまさに、AIが人間の思考よりも劣っていることの証明でもあるかと思います。

かといってAI開発に否定的なワケではなくて、むしろAI開発の過程で人間の知性についての理解が進めば、人工知能のみならず人類そのものにとっても有益な研究成果になるとむしろ期待しているんですけどね。。

いずれにしろ、AIが人類全体の思考能力を完全に超えるなんて日はたぶん永遠にやってこないでしょう、というハナシでした。


セレンディピティと哲学的思考力

「セレンディピティ」という言葉を聞いたことってありますか?「偶然をうまく機会ととらえることによる成功」あるいは、「幸運をつかみとる能力」(by Wikipedia)みたいなイメージで、まあそういうことってあるよな~と感じつつも、個人的にはいまいち掴みきれない概念でした。

今日たまたま、日経ビジネス・オンラインの記事、「セレンディピティとイノベーション」を読み、セレンディピティの源泉は、哲学的思考力なのだ、ということがアタマの中でつながり、やっとこの概念の持つ意味が腹に落ちて分かったので、今回は、偶然的な発見・成功と哲学的思考力がどうつながっているのかについて、できたてほやほやの個人的理解をお話しします。

「セレンディピティとイノベーション」(日経ビジネス・オンライン記事。閲覧には無料会員登録が必要です。)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20131001/254080/ 


ここで紹介されている話では、道路の白線用に使われる、とある高価な物質の代替品の開発検討をする中で、化学物質の専門家ではない参加メンバー(女性バレリーナ)が雪が降ってくるのを見たことをきっかけに、技術開発の方向がまったく当初の想定外の方向で進んでいく、というエピソードが紹介されています。 ちょっと出来すぎな話のようにも感じられますが、「雪は結晶が光を乱反射するから白く見える」という小話をきっかけに、開発検討のスコープが広がっていったことが示されています。

このエピソードを読んでゴゴが理解したことは、セレンディピティの発現は、単に偶然をうまくとらえるといった神秘的なことではなく、自らが探究している課題と、一見そこにつながらない物事(偶然の出来事)との間の、本質部分における共通性を感じ取れるかどうかにかかっているのだ、ということです。逆に言えば、自ら抱える課題の本質の姿を捉える力がなければ、セレンディピティは発現しない、と言えます。

こうしたモノゴトの根源的な本質を掘り下げる能力というのは、「哲学的思考力」に密接につながっていると思います。これまでも何度かゴゴログ内で触れていますが、一般に「実用的でない」と思われている哲学とその思考法とは、哲学とは昔の偉い人が言った小難しい概念を覚えて理解することではなく、自らが対峙している事象や課題の表層をはぎ取った「本質の姿」は何か?を掘り下げる学問・行為です。そして今回、こうした思考力こそ、偶然の出会いを含めた様々なモノゴトを、イノベーションやクリエイティブな思考へとつなげる重要なカギだと、一つ理解が進んだように思います。 

あらためてまとめを書くと、「セレンディピティを得るには、哲学的思考力が欠かせない」、ということです。


ちなみに上記の記事の中で、「『理論は経験から帰納的に出てくる』というのは間違い」というフレーズが出てくるのですが、個人的な「アンチ・ロジック一辺倒」主義と重なって、非常に脳ミソに刺さりました。新規ビジネスの可能性を、データとロジックの積み上げのみで実証を求められて苦しんでいる、感性派の方々に捧げたく思います。(笑)


(参考)哲学・哲学的思考に触れた過去記事。
「本質を創造的に考えるための脳みその使い方」
「大学に行って何の役に立つのか(その3)」

本質を創造的に考えるための脳みその使い方 ~インサイトはこうしてうみだせ!~

今回は、本質的かつクリエイティブにモノゴトを考えるために、こんな脳みその使い方がありまっせ、という話です。

前回、未来を変えるデザイン展の話しで、あえて考えを整理しきらずに、なるべく脳みその中のそのまま感を残そうとしたのは、この記事につなげる企みがあったためです。

以下、「哲学的思考」「脳みそのとの対話」「アナロジカルシンキング」と、ゴゴが勝手に命名した、ちょっと変わった?脳みその使い方を紹介します。多分、こういうことやってる人はそこそこいると思うのですが、世の中ロジカルシンキングばかりで、あまりこういうアプローチをまとめたものを見たことがないので、何かの参考になればと思います。


「哲学的思考」
前回の思考再現の出だしは、
「教育とデザインか。。。そもそもデザインって何やろ?『デザイン』って何をどうすること?」」
というところから始まります。この、「そもそもxxって、何?」と考えることが、ゴゴが「哲学的思考」と呼んでいるもので、モノゴトの本質を考える上で、絶対に欠かせない入り口です。

ゴゴログでも何度か書いてますが、哲学というのは、小難しい話しをするためではなく、ものごとの本質を捉えようとするものの考え方です。そのためには、物事の表面にある具体論を取り除いて、奥底にどんな「芯」や価値観、あるいはロジックの出発点になっているものがあるかを考えようとしないことには始まりません。

例えば、「教育課題」と漠然とした問題意識のなかで、何が本質たる課題になるのか、それは何故なのかを考えずに表面的な問題に飛びつくと、グローバルだ、英語だといった話に終わってしまいます。


「脳みそとの対話」
前回の思考の再現内容で、あえて説明をまとめ切らずにごちゃごちゃした思考過程をを残したのは、特にこの脳みそとの対話・おしゃべりを表現したかったからです。

みていただければ分かるかと思いますが、イベントでスピーカーが話していた内容がほとんど含まれておらずにひたすら自分のアタマの中での問答が続いていて、唯一、フロアの他の参加者の発言にのみ反応している程度です。

実際には、スピーカーの話しも聞いてはいるのですが、思考する部分では全く別のことを考えています。ここには、メタ認知と呼ばれる、何かを知覚することと、自分がそれを知覚している状態を知覚するという、一種の自己客観能力が土台となっていますが、哲学的思考に入った後は、無意識に脳みそが語りかけてくることに注意を払って、本質に潜り込んでいくことが大切です。

こういう時に、雑念を払って話に集中しようとか、しっかりメモとろうなんてマジメにやろうとしてたら、他人の意見を記憶するだけに終わってことにもなりかねません。人の話というのは、所詮は自らの問題意識を掘り下げるための道具やキッカケにしか過ぎません。そこから自分はどう考えるか?その奥底に、誰もが気づかなかった答えがあるかもしれません。


「アナロジカル・シンキング」
アナロジカル・シンキングとは、日本語でいえば「類推思考」、つまり、ある事象が別の事象がにも当てはまるだろうと類推して、モノゴトの本質や構造をつかむキッカケにする思考法です。あるいは「比喩」を使った思考の飛躍法とも言えます。

思考再現のなかでもう一つ、社会変化の波というテーマから、
「『波』を乗りこなすっていえば、サーフィンやな。」
と、波の比喩から話が飛躍してます。そもそも、比喩というのは本質的に似た部分があるから比喩として成り立つので、比喩でつながる「別の話」には、本質に通じるカギがある可能性が高いのです。

このつながりには単に感覚的な部分や思い込みなど、本当に飛躍するだけのリスクもありますが、なかなか見えにくい本質を探る上では、すでに存在する様々な事象の共通点から類推してみるというのは、大きな手がかりになる可能性があるこで、使わない手はありません。

よく、できる経営者は例え話がうまいと聞くことがありますが、常に実体のわかりにくい経営課題に当たるなかで、うまく他の事象から問題の本質をつかんだり、解決のキッカケを得る能力が高いことが経営能力にも活きていると考えれば当然かもしれません。


こういう思考をぐるぐる回す中で、本質的な問題意識や仮説、いわゆるインサイトがうまれてくるのだと、ゴゴは考えています。ロジカルシンキングが本当に価値を発揮するのはこの後で、真に本質的な問題意識や仮説を人に説明し、理解を得るためには、ごちゃっとした本質理解を、論理的に整理する必要があります。

しかし、逆に言えば、こうした本質思考を経ずに、ロジックだけで物事を切ったところで、何も創造的なものはうまれてきません。あまりにロジカルシンキング一辺倒な状態をゴゴが嫌うのは、このためです。

ゴゴの考え方以外にも、面白い脳みその使い方が広まって、もっともっと本質的でクリエイティブな議論ができるようになればいいなと思ってます。他に面白い脳みその使い方をしてる人がいれば、ぜひシェアしてください。
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