ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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主観

ロジックの「タテ」と「ヨコ」、そしてあらためて「主観性」の話

9月5日の最終出社から、ちょうど2週間。
先週は沖縄に家族旅行に行き、今週はもともとは海外の知人を訪ねつつ、シンガポール~LAあたりにプラプラ行こうと思っていたのですが、結局予定を詰め切らないまま、ほとんど予定のない1週間を過ごしております。

ちなみに、前回記事(リンク)は6600人の方に読んでいただいており、ゴゴログのPVも月半ばにして初の1万超えという、すばらしい「卒業祝い」をいただけました。ありがとうございます、引き続き、ゴゴログご愛顧ください。(笑)


そんなこんなでこのところ基本的に何事にも追われることなく、のんびり過ごしておったわけですが(スケジュール調整等お待たせしてる方にはサボりがばれるな。。先に謝っとこう。スミマセン!)、そんななか、大学時代からの旧友K君がウチに遊びにやってきました。

K君も2年前に会社を辞めて、元々好きだった靴の世界を追い求めるべくイタリアに行ってしまったという、プラプラの師匠とでもいうべきヤツですが、久々に帰国してきたので、お互いの近況を共有しつつ、旧交を温めた次第です。

で、彼がイタリアの語学学校で衝撃を受けた体験というのを教えてもらったんですが、それは授業の中で「もしイタリアを自分の好きなように作り変えられるとしたら、あなただったらどうするか?」という問いを出された時のこと。

K君は「イタリアの政治形態は今こうだから・・・うーん」と考えているそばで、ドイツ(だったかな?)から来ていた19歳の女の子が、「私だったらアルノ河をチョコレートの川に変えて・・・」みたいな話をしたらしい。

で、彼が何に驚いたかと言うと、その女の子のお花畑っぷり。。ではなくて、そういう突拍子もない話を臆することなく自らの意見として堂々と言える個人のスタイルや環境に対し、何も言う事ができなかった自分自身や日本との大きな違いを感じた、ということでありました。


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若者よ、客観性ではなく主観を磨け! ~イノベーションが求められる時代に真に必要とされる能力(その3・完結編)~

その1その2を読む)
一連の「主観シリーズ」の3回目(完結編)です。

前回記事まででは、以下について述べてきました。
・最近ホットな「デザイン」に関わる人たちと話す中で、客観的な正しさよりも、個人としてモノゴトをどう見るかという主観の強さが、新しい価値創造を行っていく中でもっと必要になってくると思われ

・主観の強さというのは、単に「私は~が好き/思う」というレベルにとどまらず、なぜそう感じる/思うのかをもう一段掘り下げて、そう感じたり思っていることの土台になっている、個人の根源的な価値観まで掘り下げられていること。

・そうした「主観の磨き上げ」ためには、「批評」という行為が有効であること

ここまでで、「主観が大切」という考え方もあるんだなとか、「主観といっても、好き/思うだけではないレベルがあるのだな」ということは受け止めてもらえるのではないかと思いますが、では、そうした強い主観が、本当にイノベーションのために欠かせないのかという点については、まだよくわからない、というところかと思います。


世の中は客観的な正しさで出来ているのか? 
皆さん、上記のとおり問われたらどう答えますか?ゴゴの好きな哲学の世界に寄り道しますが、ちょっと考えてみてください。西洋哲学は、ギリシャ哲学における「世界は何で出来ているのか?(火・水・数・・・)」という思索から始まり、この世の中の事象を成立させている決定的な原因(=真理)を探ろうとしてきました。しかし、この考え方を突き詰めていくと、人間の運命も何か(例えば、神)によってあらかじめ決定されている、という考え方に行きつきます。

しかし、心ある人間として、すべてが運命的に決められているなんていう考え方はどうも気に食わない。やはり、人間たるもの自らの力で人生を切り開いていくのだ、という考え方の方がすっきりするし、生きやすい。ただ、こうした自己中心の考え方もつきつめていくと、世の中に存在する「客観」と自らの「主観」が対立し、ひどくなると世の中のすべてが疑わしいという独善的な懐疑主義やニヒリズムに陥る危険性があります。

哲学の世界では、こうした客観的真理が存在するのか・しないのかが大きなテーマとなって長い間いろんな議論・思想が生まれてきたのですが、 フッサールという哲学者は、「間主観性」という考え方でこの対立的問題を解決しようとしました。それは慨して言えば、人間の認識の外にあらかじめ客観的真理が存在するのではなく、個々の主観同士が同じモノをみて、そこに共通の了解が産まれた時にそれが真理となる、というという考え方です。(自然科学的な法則も、人間の認識によって自然現象に秩序づけているだけ、という考え方。)

つまり、フッサール哲学(現象学)では、自らの主体的な自らの在り様(主観)を前提としながらも、懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく、他者と共有できる客観的世界が成立することを示したのです。この考え方は、非常に面白いと思いませんか?世の中は「客観的な正しさ」で出来ているのではなく、「人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてただ作り出されるもの」(竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」p.68)なのです。

そう考えれば、自分のやろうとしていることが正しいのか、本当にあっているのかを悩むことには実はまったく意味がなくなります。よく、ベンチャースピリットの一つとして、「パラノイアだけが生き残る」(アンディ・グローブ)が引き合いにだされますが、それは、「本当がどうかわからない事を、恐怖心を振り切ってトライする」というイメージではなく、自分が「それは本当である/世の中にとっての普遍的価値がある」と心の底から信じることを、他者からの共通理解を得られるまでやっていく、ということのように思われます。


イノベーション時代における「主観の強さ」の意味
もはやあまり説明する必要もない気もしますが、上記で述べたように、世の中にイノベーションを起こそうとするような試みにおいては、世の中の常識ではなくても、「それは本当である/普遍的価値がある」という確信が自らの中に存在していなくては何も始まりません。

しかも、自らの中の確信は、「間主観性」を引き合いにだせば、世の中の他者からの共通理解を得て初めて意味ある真実となるわけですから、これをきちんと他者に説明をして、納得を引き出していかなければなりません。そのためには、「私は~が好きだ/思う」レベルでは、未だ世の中の常識ではない「未来の真実」を、他人に理解させることもできないはずです。

なぜそれが好きか、そう思うかを自らの価値観まで掘り下げて理解していないと、他人に説明することも難しいでしょうし、どちらにしても理解されにくい新しい価値観を、他人に拒否されつづけてもあきらめることなく試し続けるためには、自分の中での明快なロジックとしてを伴っての「それが大切だ」という、「強い主観」が必要になります。

しかしながら、前回述べたように、自らの主観をきちんと掘り下げて語れる日本人は、あくまでもゴゴの個人的感覚ではあるものの、非常に少ないと思います。でも、だからこそ、これからの時代を切り開いて行こうとする若者にとっては、「強い主観」を磨くことの価値が非常に高まってくるとゴゴは思うわけです。

ロジカルシンキング的なスキルはもちろん大切ですが、それでもって客観的な正しさのみを検証することに埋没することなく、自分は世界をどう捉えているのかといった物の見方や、自分が大切に思うことの根源となる価値観を掘り下げていくような「主観の磨き上げ」に投資していくことは、イノベーティブなチャレンジに挑戦しようとする人にとって、絶対これからの時代で効いてきますよ!

 
P.S.
これを書いてる本日は2013年の大晦日。
(買いだしやらの年末家庭進行のさながら、早朝起きだして書いてます。。我ながら何してんだか。) 

強い主観にあふれてイノベーティブな可能性に満ちた日本の未来に思いをはせながら・・・皆様よいお年を!



※今回の参考図書



若者よ、客観性ではなく主観を磨け! ~イノベーションが求められる時代に真に必要とされる能力(その2)~

前回記事の続きです。前回、新しい価値を生み出していくことが求められる時代においては、客観性よりも主観の方が重要になる、というハナシをしていました。では、主観とはそもそもいったい何なのか、どうすれば「主観を磨く」ことができるのか、ということを今回の記事では掘り下げます。

主観とは何なのか
さてまず、主観、主観的であるというのは、どういうことでしょうか?普通に考えて、主観というのは、「私は~と思う、感じる」という個人的な認知や感覚です。他方で、客観というのは、世の中の真実・真理や常識に照らし合わせて、誰からみても多くは正解・妥当とされるであろうことをより分ける判断です。では、主観的な「私は~と思う、感じる」という感覚は、いったいどこからやってくるのでしょうか?

例えば、ゴゴは一時、ジャズを好んで聞いていました。「私はジャズが好きです」ということですね。じゃあ、なぜジャズが好きなのか?「好きだと感じたんだから好きなんだよ」、こういうオレ様ルール的な態度(※)から一歩進んで考えてみます。そうすると、「アドリブ効かせたり、少しテンポやコードをずらしたりといった、ルールにとらわれない自由なスタイルや偶発性、そこから生まれる感情的なエネルギーに魅力を感じる」と、一歩掘り下げた説明もできます。つまり、ゴゴの主観は、「自由でルールが決まっていないこと、感情的なこと」に魅力を感じており、その一つの表れとして、ジャズを好んでいる、と言えます。

(※最近、「ヤンキー消費」がちょっとしたホットコンセプトになっているようですが、ヤンキー文化にありがちな、こうしたオレ様ルール的な考え方も拡大していくのだとすると、さらに日本の先行きが心配になってきます。。)

しかし、同じく「ジャズが好きです」という別の人に、同じようになぜかを掘り下げて聞いた場合、例えば、「ジャズの持つ多彩でメカニカルなコード体系や、理知的な雰囲気が快い」と答える人もいるかもしれません。この人は、ゴゴとは違うこの人なりの主観でジャズの魅力を捉えています。

つまり、主観というのは、その人固有の価値観によって、自分の外側に存在する対象の良い-わるいや、美しい-美しくないといった価値判断をする姿勢であり、「主体的なモノゴトの捉え方そのもの」といえます。


どのように「主観を磨く」のか-批評するということ
前段のように見ると、主観的といっても、「僕はジャズがクールだと思う」「私はクラシックが好きです」「俺はヒップホップが好きなんだよ」という、「いわゆる主観的」な態度から、一歩掘り下げた在り様があることが分かったかと思います。では、客観的な論拠なく、なんとなく自らがこう思う、こう感じるということは誰にでもあると思いますが、それがどこからきているのか、どんな価値観やコンセプトに基づいているのかを説明できるでしょうか?

非常に個人的な感覚ですが、自らの価値観を掘り下げて主観を語れる日本人は、かなり少ないように思います。モノゴトの考え方や感じ方を掘り下げていく行為というのはまさに哲学的な行為ですが、こうした「正解のない」ことを突き詰めて考える訓練は、日本の通常教育の中ではおこなわれていません。もちろん会社に入ってもそんなことは求められません。すでに世の中に存在する知識、データ、枠組みを組み合わせて、正解を出すことのみを求めてきた結果ですね。(それはそれで、時代的な合理性があったと思いますが。)

しかし、こうした価値観のベースが確立されていない「主観」というのは、非常に脆いものです。ただただ「僕はジャズがクールだと思う」「俺はヒップホップが好きなんだよ」なんて言い争うのはさすがに非建設的ですし、それ以上語るコトバをもたなければ、主観的な「好み」は、個人的な趣味の範疇として、内心にとどめ置くことが妥当になってしまいます。さらにひどい場合、個人の中に主体的な価値軸が育たないために、他人の評価や世の中の流行にのることでしか自らの好みをカタチ作れないとなれば、画一的で表面的な社会集団やマーケットしか生まれない=イノベーションが起きにくい、という状況につながってしまうとゴゴは考えます。

これが、前回記事の中でロンドンのデザインファームの知人から言われた、「日本人は主観的な部分が弱い」ということにつながっているのだと思います。ではどうすれば主観を磨けるかと言えば、すでに上記に見たように、自分が思ったり感じたりすることの核心的な根っこを、きちんとコトバでとらえる訓練をするということです。これは、さまざまな事象に対して、「批評」を行うということで実践できます。

批評ということは、なんでもかんでも批判することと思われがちですが、それは違います。ゴゴが愛読する「哲学は何の役に立つのか」(西研、佐藤幹夫)から、以下の一節を紹介します。

「マンガでも映画でもいいのですが、なぜかあの主人公はカッコいいよ、こっちはダサいよ、と感じる。じゃあその『カッコいい』をどんな言葉にできるか。言葉でいうためには、自分の感触に向き合ってそれを見つめなおす必要がある。そして、それを他人に伝えて対話していく。そのことによって、自分の価値観を自覚的に検証して、鍛えていくことができる。」(同書P.86)

このゴゴログも、こうして考えると自分の主観を鍛えるためにやっているようなもんです。


こうした主観の強さが、どのようにイノベーションを生み出すことにつながっていくのかという点についてまで書きたかったのですが、またまた長くなってしまうので、「次回に続く」ということで。





若者よ、客観性ではなく主観を磨け! ~イノベーションが求められる時代に真に必要とされる能力(その1)~

「客観的に考えろ!」・・・みなさん、一度はこういうことを言われたり、本などで学んだりしたことないですか?多分、普通に人生を送っていると、学生生活や仕事の中で、主観よりも客観性を問われることが圧倒が多いんじゃないかと思います。

極論すれば、客観的にモノゴトを見られる能力には価値があり、「アンタが自分で考えている主観なんてどうでもいい」、というのが、一般的な価値観ではないでしょうか。ところが、先週とある2つの出会いの中で、これからの時代、むしろ客観性よりも主観性が大切になってくるであろうという気付きを得る機会がありました。


一つは、東大ischoolで行われたワークショップに参加した時の話です。ischoolというのは、イノベーションを促す人材の育成を目指して、デザイン思考的なアプローチで教育に取り組んでいるプログラムなのですが、このワークショップの中で、「ワトソン君」の話題が紹介されていました。

AIのワトソン君、アメリカのクイズ番組で優勝したハナシはこちら

このワトソン君、クイズ番組で普通に口語で話される質問を理解し、人間と競って答えていくのですが、ぶっちぎりで優勝したそうです。このハナシ、ゴゴはまったく知らなかったのですが、AIはここまで来ているのですね。
(ちょうど前回記事でAIの話を扱ったところでもあったので、不思議にタイミングがつながるものだと。。。)

iSchool横田ディレクターの予想としては、「デザインする」という行為もある程度の思考フレーム・ステップが見えてきているので、2050年頃には、ある程度創造的な活動も含め、コンピューターが人間よりも優れて行える時代がくるだろう、逆に人間に価値が残るのは、何を作っていきたいかという「主体的な意思」ではないか、という話しでした。

そしてもう一つの出会いは、ロンドンのデザインファームをベースに活動する知人が日本に出張してきたタイミングで会って話していた時に出てきた、「日本人は主観的なところが弱いように思う」、というハナシです。

これがまさに今回のテーマを書く大きなきっかけになっているのですが、彼曰く、新しい価値を生み出していくプロセスにおいては、組織や個人が持つ何らかの根本的かつ固有の価値観やコンセプトを前面に出してエッジを効かせなければならない、しかし、こうした「主観的な」パワーがヨーロッパに比べて日本は弱く感じる、ということでした。

ヨーロッパはどうなのかと聞いてみると、個人が自らの好みを大切にしていて、知名度や他者の評価などにあまりこだわらず自分なりに楽しんでいること、またその分個々人の好みが分散しているために、多様なもの・新しいものが受け入れられる土壌やマーケットの厚みがある、とのこと。

一方で日本はどうかと考えると、まさに冒頭で上げたように、「客観的に見てどうなんだ?」的な、すでに確立されたものの見方や価値観に照らして、自分の考え方があっている、間違っている、といったような思考に知らず知らず染まってしまっているように思います。

客観性というのは、それはそれで大切なことは間違いないですが、それでは主観はどうするんだ?というところには、今まで全く光があたっていなかったと思います。

正しいことを間違えないように遂行すること、そういう時代であれば、確かに客観性一本槍でも良かったのでしょう。しかし、新しい価値を生み出していく中で、「主観的な」価値観・コンセプトが求められ、一方で誰が見ても正しい「客観的なこと」は、どんどんAIがとって変わっていく時代がすぐそこにやってきているとしたら・・・?どう考えても、主観的なモノの考え方がもっともっと求められるようになってくるはずです。

じゃあ、「俺はあれが好き、これは好みじゃない!」なんて、「ユニークな個性(笑)」をぶちまけ続けることが、主観を磨くことにつながるのか?いえいえ、ゴゴログはそんな浅くないっすよ、と行きたいのですが、ちょっと長くなってしまうので、そこは次回に続く、ということで。

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