ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

カテゴリ: 政治・制度・法律

今回の記事を書くにあたって、まず最初にいっておきたいことがある。日銀よ、総裁記者会見録ぐらい即日アップしとけ!ソースとしてもっとも重要な情報なので、確認しようと日銀のページを漁ったら、公表予定は「11月4日(火)時刻未定」だって。。。歴史的ともいえる重大イベント、徹夜しても即日アップするのが普通の神経じゃないのかねえ。それを連休明けで時刻未定とは、まさにお役所仕事。。(ちなみにコレ書いてる今は11月3日です。)

というワケで、今回は2014年ハロウィンの日に浮かれる日本を襲った、サプライジングな追加量的緩和、いわゆる「黒田バズーカー2」についてでございます。

正直、今回の追加緩和が良いのか悪いのか、私には分かりません。まあ世界の経済学者レベルで見解が分かれるであろう金融政策について、法学部時代に楽勝単位を稼ぐためにしか経済学を修めてないゴゴがいいの悪いの言ったところで意味はないわけですが、世の中賛否両論うずまいているようで。

・黒田総裁は天才かつ秀才だが、間違っている
・小幡績氏は天才でも秀才でもないし、間違っている 

(上記引用はどうでもいいネット上でのから騒ぎを笑うためなので、真面目に読んでもらう必要はありませんww)


しかし、結局のところ賛というにせよ否というにせよ、何をもってそう主張しているのがイマイチ分かりにくいのは、 日本のマスコミの仕事っぷりからすると、一般的なニュースをいくら見てもおそらく同じでしょう。そこで何が分からないのかを明確にしましょう!というのが今回のゴゴログの目的です。


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先日、こんなネット記事が出ておりました。

安倍首相が力を入れる第三子以降に特化した少子化対策は効果があるのか?

安倍首相は2014年7月19日、少子化対策において特に第三子以降に特化するやり方を積極的に検討すべきだとの考えを示した。第三子以降を重点化するやり方は、即効性が高いといわれているが、一方で経済的問題という大きな障壁も存在している。
さて、これを見て皆さんどう思われますか?

この方針のとおり、第三子以降に特化することでどこまで少子化対策に効果があるかは、ゴゴもよく分かりません。しかし裏を返せば、第二子までは経済的な政策支援の意義は低いともとれます。そして、これは正しい判断です。

少子化対策として、育児におカネがかかるから子ども手当など経済的支援を、みたいなハナシが良く出てきますが、個人的にはこれは効果の薄いバラマキ・愚策だと考えています。育児におカネがかかるという問題意識を持つのは、こどもを産んで育てて初めて実感できることであり、カネがあろうとなかろうと、カップルがいれば一定割合でデキちゃうものはデキちゃうワケです。


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本日7月1日夕(2013年)、臨時閣議が開催され、憲法解釈の変更により政府として「集団的自衛権」を認めるとの方針転換を行いました。
集団的自衛権行使容認 閣議決定(NHK NewsWeb)

この判断を巡っては、護憲派などから批判的な声が大きく、また、新宿での焼身自殺未遂や官邸前でのデモなど、ややセンセーショナルな出来事となっています。

さて、今回の政府判断をあなたはどう評価しますか?この問題を考えるにあたっては、今回の判断が「憲法解釈変更によって行われた」という手続論の問題と、「集団的自衛権の容認」という内容論の問題、二つの側面があり、今回の判断に反対する人たちも、異なる観点で反対していたりします。


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それほど時事的でもないですが、選挙の話です。
近頃、選挙がある度に、「明るい選挙推進協会」(どれほどの存在意義があるんだろ、ここ?)の回し者でもなかろうに、SNS上に「みなさん、選挙に行きましょう!」的なメッセージがあふれるのにうんざりした経験ないでしょうか。

正直どうでもいい話なんですが、最近あまりにもネタがないところ、おときた駿さんの
どうして、選挙にいかなきゃいけないの?-よいこのみんしゅしゅぎ- 
というブログエントリーを見て、じゃ、埋め草程度にこのハナシでもするか、ってくらいの今回の話です。

上記のブログでは、現在西宮市長選に立候補されている今村氏がつくられたとの紙芝居を紹介しており、紙芝居の内容は、こどもにも分かりやすく選挙投票の意義を説明しているものなのですが、これを見たコメントとして、「分かりやすい」とか、「選挙の大切さがあらためて分かった」的な反応があったりするのを見ると、「は?」と感じてしまいます。

ま、こども向けには十分意義ある内容で、おときた氏にも今村氏にも別に噛みつきたいわけではないですが、大人がこれ見て「そうだ、選挙、行こう」的なメッセージを発しているのを見ると、そんなこといまさら感じ入る程度なら、オマエは選挙いかんでエエ、と少し毒を吐きたくなるわけです。


確かに選挙権というのは、絶対的な王権に対して議会が対抗するようになり、その議会議員を民主的に選べるようになったという歴史的経緯のなかでは、非常に大切に守るべきものです。(まっとうな大人であれば、子供向け紙芝居ではなく、過去の人々の多くの血の代償のもと権利を獲得した歴史に感じ入って欲しいところ。)

なので、選挙権そのものが制限されるような事態に対しては、頑として行動するべきだとは思いますが、個別の選挙において、大して興味関心もないのに、「選挙は大切」程度のホワっとしたキモチでロクに知りもしない候補に投票したところで、 何の意味があろうかというもの。それって単なる自己満足じゃないですかね。それを、大上段に「選挙に行きましょう!」なんて言われると、ウザいことこの上なし。

問題は、選挙の争点や候補者の主張に関心を持つことであって、ちゃんと考えたけど結果的に選ぶポイントもないから棄権して遊びにでかけるってのは、決して悪いことでもなく合理的な行動なんじゃないでしょうか。逆に言えば、有権者の関心を高めるような、選挙における争点や候補者自身のアピールを明確にできていないことや、そこにきっちり切り込めていない報道に問題があるのであって、そうした争点が明らかでないにも関わらず、「選挙に行かないのは意識低い」的なスタンスでモノ申されると非常に感じが悪いっす。

ま、棄権するにせよ白紙投票するにせよ、その場合には政治に文句を言う権利を投げた、という心構えで文句言わずいてくれればいいワケです。で、後悔することがあれば、次は選挙にいけばいい。どっちかっつーと、一時的なノリで山本太郎を当選させて鈴木寛を落とすなんてノイジーな投票は控えて頂く方が、世の中のためになるのではないかと思うところであります。以上。

投票率100%の国がいい国かどうかと考えれば、一概に投票率が低いからダメ、というわけでもないのは自明ですね。では。
 

2月はどうもアンテナが立つネタがなく、ブログ更新サボりまくりだったのですが、久々にピピッとくる香ばしそうなネタが入ってきました。

ドワンゴ就職受験料、厚労省が中止求め行政指導(Yomiuri Online)
来春卒業予定の大学生らの採用を巡り、大手IT企業「ドワンゴ」(東京)が入社希望者から受験料を徴収する制度を導入した問題で、厚生労働省東京労働局が「新卒者の就職活動が制約される恐れがある」として、職業安定法に基づき、次の2016年春卒の採用から自主的に徴収をやめるよう行政指導をしていたことがわかった。」 

これ、皆さんどう思います?ツイッター上では「厚労省、バカじゃねーの?」的な反応がわりかし普通だったように思われますし、ゴゴも最初は同じくアホちゃうか?と思いました。「職安法?しかも行政指導?www」ってな感じです。

ちょいとウンチクになりますが、職業安定法とはどんな法律かというと、主に職業紹介に関して規制する法律です。法の最初に掲げられている目的を見てみると、
 
(法律の目的)
第一条  この法律は、(中略)、公共に奉仕する公共職業安定所その他の職業安定機関が関係行政庁又は関係団体の協力を得て職業紹介事業等を行うこと、職業安定機関以外の者の行う職業紹介事業等が労働力の需要供給の適正かつ円滑な調整に果たすべき役割にかんがみその適正な運営を確保すること等により、(中略)、もつて職業の安定を図るとともに、経済及び社会の発展に寄与することを目的とする。

とされています。さらに、この法律は労働関連法の憲法ともいえる労働基準法の第6条、「何人も、法律に基いて許される場合の外、業として他人の就業に介入して利益を得てはならない。(中間搾取の禁止)」という規定を土台としてつくられています。つまり、不当にピンハネすんなよコラ、という法律です。

というワケで、職業紹介ではないドワンゴの取り組みに関して職安法で対応とは何事ぞ?しかも昭和でもないのにいまさら行政指導かよw、というのが最初の感想でした。


しかしですね、ここは念のためと法文を確認すると・・・

(報酬受領の禁止)
第三十九条  労働者の募集を行う者及び第三十六条第一項又は第三項の規定により労働者の募集に従事する者(以下「募集受託者」という。)は、募集に応じた労働者から、その募集に関し、いかなる名義でも、報酬を受けてはならない。

とばっちり規定されておるではないですか。。というワケで、厚労省の指導は当然のことでありました。法律で明確に禁止されているのですから仕方ないですね。

ここで、「そんなにばっちり違反してるんなら、指導なんてぬるいこと言ってる場合じゃないんじゃないの?」という疑問も当然あるかと思いますが、ここが今回の対応の妙で、ドワンゴの今回の取り組みというのは、大量かつ入社意思の薄い応募を課金によって制限しようという取組みなワケで、法がそもそも禁じている「中間搾取」を目的とした行為ではないことは明白です。

昨今の就職活動の在り方に様々な疑問が呈されている社会状況の中で、杓子定規に即座に法の適用を行うなんて無粋なことをするのではなく、行政指導というカタチで、「来年はうまいやり方考えてね~」とやんわりメッセージを送ったのは、むしろ法文の規定と現実問題の間でバランスをとった巧手であるといえましょう。

ちゃんと法律を理解しておくことは重要ですね。ちなみに、職安法第39条に違反したときの罰則は、「六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金」でございました。

(法律見る時は、罰則を見ることが肝心ですよ!というワケで、こちらの記事もどうぞ→「法律を読み解いてみよう!話題の特定秘密保護法案を題材に、超シンプルな法律の読み解き方を教えます。」

前回、脱原発かどうかではなくて、再稼働に反対なのか、それとも賛成・容認なのかが本当の争点だと書きました。

で、賛成・反対どちらをとるか、その理由はなぜかを考えてみてください、としていましたが、皆さんいかがでしょうか。

この問題をきちんと考えるためには、原発が停止状態にあることと稼働状態にあることの「差異」を理解していないといけません。メリデメとかプロコンとかってやつです。

まず前提として、普通に止まっている原発だろうと、いますでに溜まっている放射性廃棄物や原子炉の完全処分は、「脱原発」と叫んだところですぐには実現できないことなので、再稼働しようとしまいと、原発はこの先何十年も存在し続ける、ということは押さえておくべき事実です。

さてでは、再稼働したときと止めているとき、そのメリットデメリットは何でしょうか?

再稼働のメリット
まず、再稼働した場合のメリットは、輸入燃料費を下げられることです。最近、経常収支赤字のニュースなどでかなり認識されるようになってきましたが、原子力発電の代わりに火力発電に頼っていることで、燃料輸に年間で約4兆円も余分にかかるようになっています。これは、今回の消費増税による税収増に匹敵します。このおカネを節約できれば、被災者への賠償や電気料金の引き下げなどに充てることができます。

(関連ソース)
原発停止で13年度の燃料費3.6兆円増
消費税8%、税収増は4兆円強


原発停止のメリット
では、原発を停止しておくことのメリットは何でしょうか?

ザックリいえば、再稼働しないことのメリットは「安全」ということでしょう。しかし、動いている原発と止まっている原発の安全性の違いってどれほどなんでしょうか?

実のところ、判断できるだけの情報があまりないのですが、考えるべき3つの論点を以下あげます。

メルトダウンまでの余裕
まず、動いている状態から、被災等で制御不可能になると、すでに炉内水温は沸点を越しているので、数時間程度で冷却水が蒸発し、メルトダウンが始まるらしいです。一方、冷温停止状態であれば、冷却水が沸点に達するまで数日間は余裕があるらしい。。

しかし、ここで「らしい」とばかり言っているように、あまり確たるソースが出てきません。ゴゴの調べ方が悪いのかもしれませんが、個人のブログやはてななどのQAでやっとこうした「違い」について書かれたものを見る程度です。

(関連ソース)
原発は稼働中より停止した方が安全ですか

とはいえ、確かに、稼働状態と停止状態、それぞれで全電源喪失した場合の対応余裕度にそれなりの差があることは、理屈からして間違いなさそうです。

全電源喪失に対する対応策
そうすると、次にこうした制御不能になる可能性というのは、どれほどのものなのでしょうか?

福島の場合、「全電源喪失」という状態になり、そこからのリカバリーがうまくいかなかったことが事故の直接要因なのですが、そうした全電源喪失という事態や、そこへの対応策というものが、福島の事故をうけてどこまで進んでいるのかが良く分かりません。

ちなみに、「全電源喪失の場合も対策万全なのでもう福島のようなことは起こらない」と強く言ってしまうと、「じゃあやっぱり福島は完全に人災だよな」と、政府・東電の過失責任が改めて浮き彫りになってしまうので、この問題がイマイチはっきりしないのはそれを避けるためじゃないの?とゴゴは少し政府側の姿勢を疑っております。

ここは、福島の事故の原因と合わせ、隠すことなくはっきりさせるべき問題だと思います。

(関連ソース)
全電源喪失「津波が主因」、規制委報告
原発の全電源喪失、米は30年前に想定
全電源喪失を回避せよ 世界の原発、福島事故で動く

使用前燃料と使用済燃料の違い
もうひとつ分からないことがあります。それは、核燃料が使用前と使用後でどれほど扱いにくさが異なるか、ということです。

核燃料廃棄物の最終処理の難しさが再稼働反対の大きな論点になっているのですが、では、再稼働しないとしたときに、現在残っている核燃料はどうなるんでしょう?これは廃棄や処分がラクなんでしょうか?

まあ、原発を動かし続ければ処分しないといけない核物質の総量は増えるので、少なければマシという気もしますが、現在ある核燃料・廃棄物の処分が出来ないなら、程度差という気もします。この差異については全く見つけられませんでした。

まとめ
というわけで、再稼働をめぐるメリデメをならべると、
・再稼働すると、年4兆円(消費税3%分、あるいは1日100億円)の燃料費を削減できる。

これに対し、

・再稼働するよりは、停止状態にしておいた方が安全そう。しかし、リスクの違いがどれほどかはよく分からない。
・再稼働しないほうが核燃料・廃棄物の処分がどれくらいラクになるのかは不明。


ゴゴのこれまでの考えは、動いていようと止まっていようと原発は存在するのだから、結局はリスクは同じ、なら動かしておいた方がトク、というものでした。

しかし、こうして掘り下げてみると、リスク差についてはよく見えない中ではあるものの現に福島で事故は起こっており、とはいえ一方でいまは1日100億円も海外に垂れ流しているという状態も看過できるものではなく、判断が非常に難しい、というのがゴゴの現在の認識です。

(で、判断つかない中ですが、とりあえずは再稼働賛成派です。でももし、福島のような事故が千年に一度は起こりるかもしれませんと言われると、反対するかなあ。とはいえ100年安心レベルでも400兆円か。。)

このように考えると、脱原発を争点にあらそうなら、停止状態と稼働状態のリスク差や、全電源喪失に対する対応策の現状をキチンと開いた上で議論すべきだと思います。いまのままではまっとうな判断ができません。

だいたい原発問題は、あまりにもイデオロギー論が多すぎです。そりゃ確かに、安全考えれば原発はない方がいい。しかし、反対が通ったからといって問題がすぐに消えてなくなるわけではありませんよね。すでに原発も核廃棄物も存在し、その処分は賛成反対いずれにしろ考えないといけない、そして、そのためには莫大なおカネも必要なワケです。

なので、イデオロギーでの原発賛成/反対ではなく、すでに原発が存在していることを前提に、再稼働することとしないことについての「現時点からの差分」をリアリスティックに議論しないと、何の解決にもならないとゴゴは考えてます。

東京都知事選の争点が脱原発などというのは荒唐無稽な状況であり(前回言いましたが、そもそも「脱原発」なんて争点にもなりません)、その中でさらに低レベルな議論に振り回されないよう、政府としては一層の説明責任を、マスコミにはもう一歩突っ込んだ報道姿勢をお願いしたいところです。


ちなみに、もう締め切られてしまったようですが、日経ビジネスオンラインのこのアンケートは、なかなか良い切り口だったと思います。欲をいえば、もう少し上記論点に対して材料を示してほしかったですが。結果に注目しています。

東京都知事選、脱原発が争点だとか意味不明な展開になってきてますね。

何で都知事選で原発が争点になるねん?とつい関西弁で突っ込んでしまうわけ分からん状況ですが、脱原発を争点にしてくれた小泉さんは素晴らしいとか、脱原発こそ都知事選のテーマにふさわしいとか、何でもかんでも日本が悪いと叫び続ける某国を笑えないくらいの無節操ぶりに、もはやお笑いを見る気分で楽しもうと思っております。

というわけで、都知事選で脱原発を問うことには当然ながら全く意味を感じないゴゴですが、盛り上がっているテーマなので、脱原発という争点をちょいと考えてみましょう。

まず、「脱原発」が何を目標としているかという定義を考えてみましょう。これは、「原子力エネルギーに頼らない電力供給構造を実現すること」ということでいいですかね。この前提で、現存する原発の完全廃炉を目指している、という認識で間違っていないと思います。

しかし、脱原発といっても、原発再稼働反対という急進派と、数十年後の将来まで見すえて、エネルギー技術の進展にあわせてという現実派まで、そのスタンスには結構な幅があります。こうした幅を飲み込めば、「できるなら脱原発」という人が大多数じゃないですかね?福島の手のつけられない惨状を考えれば、それは自然なキモチだと思います。

つまり、脱原発というのは、ほぼ「キモチ」なんですよ。皆んなできればそうありたいよね、レベルの。しかし、フワッとしたキモチなんか争点なんかになりようはないわけで、本当の争点は、「再稼働に反対か、容認か」、これですよ。

こんな初歩的な論理的整理もせず、「脱原発が争点」ってことを、マスコミやら偉い人達が平気で語ってるのを見ると、「ボケか、もう日本に大学なんかいらんわ!」と言いたくなってくるくらいです。(それなりの大学に行ってた人達がこれじゃあね。。これだから文系はバカにされるワケですよ。)

さて、ゴゴログを愛読する理屈っぽいみなさんは、これからもし脱原発をテーマに議論する機会あれば(あまりないよなあ)、「それで再稼働に賛成か、反対か、どうやねん?」とキッチリ詰めていただければ幸いです。

で、再稼働を争点にしたところで、何の材料をもって賛成か反対か、というところからがホントは本題なんですが、前置きがながくなったので、次回に続きます。

あなたは原発再稼働に賛成ですか?反対ですか?、それはなぜかとともに、ぜひ次回までに考えておいてみてください。

結構シビアな問題で、ゴゴは以前は単純に賛成派でしたが、最近悩んでおります。。

一連の「主観論」の途中ですが、「安倍総理の靖国神社参拝は今後どのような影響を及ぼすか?」というテーマを某所で知人からいただき、少々考えるところがあったので、今回は話題の「靖国参拝問題」の本質を考えます。

まずは、いつも斜め上で「いいネタ」を提供してくれる朝日新聞から。

中韓メディア「感情踏みにじる」 靖国参拝、米紙も懸念


いつもの感じですね。感情踏みにじるというならば、竹島を不法占領してたり、尖閣は俺のものとか色々勝手されてる日本人の感情はどうなんでしょうね?靖国神社の位置づけがまあいろいろ議論あるのは分かりますが、総理を務める一個人が神社にいったことで感情を踏みにじられたから問題だと。。なるほど。日本の中にも同じようなことを言って勝手に傷ついたり騒いだりしている、ちょっとよく理解できないヒマな人達もたくさんいるでしょうし、感情論を言い始めたらキリがありません。ま、どうでもいい話です。

さて次。ヤフーニュースですが、もとはAFP時事の配信記事です。

安倍首相の靖国参拝、米国は「心から失望」 分析


今回の件、確かにアメリカ政府が、「失望」という強いメッセージを出したことについては気になります。どのような問題意識をもってのことのことなんでしょう?

上記記事中、下記のような見方が紹介されていました。
***
「防衛分野での日米協力など米国が進めようとしている計画を前進させようとしている中で行った今回の参拝を取り巻く状況は、小泉氏の時とは異なるとグリーン氏は指摘する。

『中国は、日米同盟関係強化に向けたあらゆる動きを妨害するだろう。しかし、日本が一連の変革を進める中、米国としては韓国にはこちら側についてもらう必要がある」
***
 
なるほど、この見方であればアメリカ政府が問題視することは理解できます。日本から見てると中韓は同じように見えますが、アメリカから見ると極東地域防衛の観点で、中韓はステークホルダーだとして別だという視点は面白いですし、重要ですね。(確かに、話題の「テキサス親父」もSpa!のインタビューで、日米韓は結束を強めなければいけない、と言ってます。)

地域防衛連携の観点で考えれば、南スーダンで韓国軍に弾薬援助したのは、イマイチな朴政権に対する韓国世論のゆさぶりという面も含めてなかなかいい動きだったと思いますが、靖国参拝問題がきっかけか、韓国軍側から弾薬を返すと態度を硬化させてしまったのは、まったく勿体ないハナシです。その意味では、今回の靖国参拝は「問題」ですね。

しかし、上記はあくまでも一つの見方ですから、実際のところ、アメリカ政府は何を問題視しているんでしょうね?政府でもマスコミでもいいですが、きちんとコミュニケーションして、本質をきちんと把握してほしいところです。


というわけで、ゴゴ的にはフワッとしたよくわからない感情論みたいな趣旨での靖国参拝批判には何の意味があるのかと全く興味ありませんし、中国・韓国との関係性が悪いのは元からのところもあるのでイマサラと言う感じですが、アメリカをはじめとする第三国が、今回の件の実際的な「問題」を何だと考えているか、その核心はしっかり掴んでおくべきだと思います。

(補足)
靖国や慰安婦問題など、欧米からみて日本が右傾化しているようにみられてイメージ的に損をするといった趣旨の話については、それはイメージの問題ですから、きちんと対外広報戦略をすすめていくほかありませんね。

その際、靖国神社については、行かないようにするのではなく、むしろタイミングを見ながら淡々と参拝を続けることで慣れさせてしまう(off issue化する)がいいと思いますけどね。 戦没者を悼んで参拝すること自体がなんでこんなに大問題になるのか、そうした異常な事態自体が、一つの「問題」だと思います。アホくさ。

話題の特定秘密保護法、「知る権利」をはじめとした基本的人権が侵害される!みたいなハナシもありますが、さて皆さんどうお考えでしょう?ちゃんと確認するには法案を読めばいいのですが、なんとなくカベが高そうで、法案をわざわざ確認しようとする人は、かなり少ないんじゃないでしょうか?

というわけで、超シンプルな法律一般の読み解き方をお教えします。では、さっそく特定秘密保護法をサンプルに、法文全文を見てみましょう。特定秘密保護法案は全27条の、法律としては割とシンプル条文です。

特定秘密保護法の全文(朝日新聞デジタル)
 ※特定秘密保護法に対する反対の大論陣を張っていた朝日新聞社がソースなので、反対論者も安心ですね!

おっと、開いていきなりアタマから読みこなそうとしてはいけません!
まず、法律というのは、最初に総則があって、「法律の目的」と、「この法律文章で使われるコトバの定義」が示されています。 ここはここで大切なのですが、ゴゴ流のおススメは、最後の方に記載されている「罰則」をまず確認することです。(法律によっては、罰則がないものもあります。いわゆるひとつのザル法です。)

特定秘密保護法の罰則は、第七章・第23条~27条の4条だけです。抜粋してみます。

第二十三条 特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする。

2 第四条第五項、第九条、第十条又は第十八条第四項後段の規定により提供された特定秘密について、当該提供の目的である業務により当該特定秘密を知得した者がこれを漏らしたときは、五年以下の懲役に処し、又は情状により五年以下の懲役及び五百万円以下の罰金に処する。第十条第一項第一号ロに規定する場合において提示された特定秘密について、当該特定秘密の提示を受けた者がこれを漏らしたときも、同様とする。

(3~5 省略)

第二十四条 外国の利益若しくは自己の不正の利益を図り、又は我が国の安全若しくは国民の生命若しくは身体を害すべき用途に供する目的で、人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、
行為(不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為をいう。)その他の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。

(2・3略)

第二十五条 第二十三条第一項又は前条第一項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、五年以下の懲役に処する。

2 第二十三条第二項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、三年以下の懲役に処する。

第二十六条 第二十三条第三項若しくは第二十四条第二項の罪を犯した者又は前条の罪を犯した者のうち第二十三条第一項若しくは第二項若しくは第二十四条第一項に規定する行為の遂行を共謀したものが自首したときは、その刑を軽減し、又は免除する。

第二十七条 第二十三条の罪は、日本国外において同条の罪を犯した者にも適用する。

さて、いかがでしょう?法文としてのコトバの固さはどうしても残りますが、罰則の対象は、
・特定業務の取扱業務に従事する者(23条)
・法文上の一定の規定により業務上、特定秘密を提供された者(23条)
・外国のスパイ(24条)
・その他、上記の共犯者・教唆者(25条)
だけです。(26条は自首した場合の刑の軽減、27条は国外にいて違反する者への適用についてです。)

更に、罰則の手前の雑則においては、

第二十二条 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。

2 出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。

とまで念入りに書いてくれています。

さあ、これだけ見れば、もういいですよね?特定秘密法案について、いろいろと「文化人」が言っていることが、いかに荒唐無稽で法律の中身をよく理解しないまま叫んでいるものかがお分かりになるかと思います。

(しかも、仮に現時点で予想しえなかった憲法に違反するような法律運用があれば、この法律を「違憲無効」として争うこともできるので、こんな法律ごときで国民の基本的人権が回復不可能なほどに侵害されることはありません。それこそ、彼らも大切だと叫ぶ日本国憲法の有効性を、自ら疑っているようなものです。ちなみに、自分が活動家の立場なら、「秘密保護法案が底抜けに悪用されることのないよう、憲法改正にはより慎重になるべき」という、次の一手を打ちますケド。笑)


というわけで、法律がどんな影響を及ぼしうるのかを知りたければ、まずはさくっと「罰則」の章を見れば結構わかるものです。そこから、細かい定義やら「第○○条で規定する~」なんてのが、いったい何なのかが気になるのであれば、条文の並びを気にせずに、関係部分を拾い読みすればいいのです。全文を読み通さなくても、大体どんな法律で、どんな影響を及ぼし得るかをつかむことができます。

さあこれで、「ほにゃらら法は国の陰謀だ!」みたいな世迷い事に惑わされることはありません。ぜひ、気になる法律があれば、サクサク「罰則」を確認してみてください!


P.S.
法律の途中には、行政機関が行うべき手続の話など、「中の人」にしか関係ないところも結構あるので、普通はそんなところを知る必要はありません。「何をすれば罰せられるのか?してはいけないのか?」ということだけ理解すれば、ある意味十分と言えます。

ちなみに、細かく定義などを追っていく方には、「『政令で定めるところにより~』とか書いてて詳細が良くわからん!」という疑問が出てくるかもしれません。法令というのは実は、法律>政令>省令>規定等といった重層構造で出来上がっているためなのですが、その話はまたいずれ。

「タクシー減車義務化へ」「規制緩和、抜本見直し」つい先日、タクシー台数を地域毎に管理し、台数制限を義務付ける法案がこの秋の臨時国会に提出される、とのニュースが流れました。これは、問題と打ち手がズレてるんじゃないの?ってのが今回のテーマです。

2002年の規制緩和で、タクシー台数の増減が届け出のみで自由に行えるようになったことから、以後タクシー台数が増加する一方、マーケット全体は経済低迷の中で縮小し、それに伴ってタクシー運転手の平均年収も、かつての300万円台から、いまでは250万円程度に下がっており、収入確保のために無理な長時間勤務をすことによる事故も増えている、ということが問題背景にあるということです。

しかし、何か変だと思いませんか?そんなに儲からないのに、タクシーの台数はどんどん増えている?なぜそうなるのでしょうか?

経済学に、「限界利益」という概念がありますが、例えばタクシー会社がもう一台車両を増やした時に、追加的にいくら儲かるか?が限界利益です。利益率にこだわらず、利益の絶対額を最大化するならば、限界利益が0、つまりこれ以上タクシー台数を増やしても儲からないところまで増車すればいい、ということです。つまり、タクシー会社はそれなりに儲けているのだろう、ということです。

利益を引き上げるレバーは限界利益だけではないので、マーケット全体も縮小する中、タクシー会社が増車でバンバン儲けている、ということは実際ないでしょうが、それでもタクシー運転手の苦境が伝えられる一方で、大手のタクシー会社が潰れそう、という話は聞いたことがありません。

ということは、タクシー業界においては、マーケットが苦しくなってくると、会社より先に運転手の方がシンドくなる構造にあるということです。多くの人が想像ついてると思いますが、タクシー運転手の収入は、固定分+運賃収入に応じた歩合分になっており、つまるところ、この固定分が低すぎることが、タクシー運転手の低収入の原因なワケです。

だったら、この固定部分を引き上げるような賃金規制を引けばいいんじゃないの?というのが、ゴゴログ的なインサイトです。

タクシー1台あたりの限界利益は、ざっくり言えば
(運賃収入−車両費・運行費−固定人件費)×(1−歩合率)
となりますが、固定人件費が高くなれば、現状では限界利益がギリギリプラスのタクシーは、マイナスに転じます。そうすると、運賃収入をあげるための努力をする(例えば、空車率を下げるためのIT投資をする)か、車両費や運行費を下げるコスト改善を考えるか、あるいは競争力のないタクシー会社は自主的に減車するかをしながら、新たな均衡点に向かうはずです。

こうした経営努力の中で、スマホで予約したらすぐ来てくれるサービスがうまれたり、コスト競争力で安い運賃を実現したりというサービス改善がうまれるワケです。それを求める前に、地域カルテル的な減車をさせるってのは、タクシー運転手を守るという大義名分のもとに、結局は努力しないタクシー会社を守るだけじゃないの?と感じてしまいます。

ちなみに、「規制緩和の失敗」のようなことがよく言われますが、参入規制の緩和と、安全規制の見直しをバランス良くしなかったことが問題であって、規制を元に戻すだけでは、何の社会的進歩もありません。それこそ、行政にも「経営努力」を求めたいところです。

「はだしのゲン」が松江市の小中学校で閲覧禁止とされた問題、個人的にそんなに関心高いわけではないですが、ネタ枯れ気味なので、久々の記事アップのため、ちょいと取り上げてみます。

今回の話については、「はだしのゲンは、悲惨で強烈な描写があり、子どもの閲覧には問題がある」という趣旨で、松江市教育委員会が各学校に対し閉架扱いを要請したということに対し、これに対し、「はだしのゲンは、原爆の悲惨さを伝えるものであって、子どもであっても読む価値がある」といった観点からの批判が巻き起こっている、という状況のようですね。

つまり、「はだしのゲン」は、小中学生に読ませるべきかそうではないか、ということが論点になっているようで、今朝出がけに目にしたワイドショーでも、その観点から、街頭インタビューで双方の意見のコメントが取り上げられてました。

まあ、感覚的には、原爆投下の悲惨さを知ることの意義を考えて、閲覧禁止はどうなん?と個人的に感じるところですが、そうはいっても、子どもに悲惨な描写を見せるのはどうか?という意見も、意見としては理がないことではないので、内容・描写の是非を言い争ったところで、結論の出る話ではありません。そう、内容の是非に関する「価値観」を問うても仕方がないのです。

この問題の本質は、個人の価値判断ではない、学校組織の運営や生徒個人の「知る権利」に影響を及ぼす行政方針の決定について、どのようなプロセスと、どのような判断材料でそうした決定をしたのか、その2点における妥当性に関わることだとゴゴ的には考えます。
(その意味において、有楽町や新橋駅前で適当に聞けた街頭インタビューを垂れ流すのは意味があるのかと思うのですが、誰がこういう手法を考えたんでしょう?アメリカにいる時に、ニュースでこうした街頭インタビューを見た記憶はないのですが、日本独自の手法なんですかね?)

そうした点で、まずもってマスコミ的に調査し、報道すべきは、松江市教育委員会が、どうプロセスで今回の決定がなされたのか?ということです。で、さくっとグーグルさんに聞いてみたら、NHKはちょいと価値ある報道をしてくれてました。
・「はだしのゲン」閲覧決定は事務局決定
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130820/k10013906771000.html

つまり、教育委員会として通知したとされている「閉架要請」が、実は教育委員会としての正式な意思決定を経ずに、「事務局」が勝手に流していた、というハナシらしいです。この記事の中では、「○○教育長は、『要請に関して教育委員を交えて議論する義務はないが、反応の大きさを考えると報告するべきだった』と話しています。」とも報じられています。

ここで、勘のいい人は、逆にさらに混乱してきたのではないでしょうか。「え、教育委員会要請なのに、教育委員は議論してないの?」「教育委員会があって、それとは別に『事務局』があるの?」「『教育長』は、教育委員に報告すべきだったと言っているけど、教育長は事務局の人?教育委員会の人?」不思議なことだらけです。

この先は、ゴゴはうまく説明できない摩訶不思議さですが、まず、「事務局」とされているのは、都道府県レベルでは「教育庁」という名称を持つことが多い行政執行組織であり、「教育長」は、その執行機関の部門トップということです。一方、教育委員会は、行政トップの指揮権から独立して執行機関の監督を行う機関であり、「教育委員長」は、「教育長」も1委員とするなかでの、委員会の長です。つまり、教育長と教育委員長は別の人です。で、教育委員会は最高意思決定機関のようであるけれども、そこの決定を経なくても、執行決定はできるということ・・・?のようです。

ここから見えてくるのは、執行機関と監督機関が形式的には分離されているが、実際にはガバナンスが効いていない、という構造的な欠陥です。生徒個人の知る権利を制限する決定にもかかわらず、「教育委員を交えて議論する義務はないが」というなら、教育委員会に図る義務があることはいったい何なんでしょうか?

この教育委員会の形骸化は、松江市に限ったことではなく、戦後の教育行政に関わるさまざまな過程を経て、現在のような意味の分からない組織になっているようです。教育行政はすべて知事・市長の指揮下にあるのだという独裁的な考え方には真っ向反対ですが、一方で、現状の教育委員会制度は全く機能しておらず、抜本的見直しをすべきというのがゴゴの考えです。


さて、この意思決定プロセスのズサンさで、これ以上言うこともないくらいですが、仮にこれが教育員会の正式討議を経て決定されていたとした場合であっても、なぜ、こうした大きな制限(学校内に限るとはいえ、閲覧禁止という個人の行為制限に類する決定)をしたのか?という点についても、確認が必要なことだと思います。

表面的に伝わってくる話では、「子どもが見るには悲惨すぎて不適切な描写がある」という理由のようですが、具体的に、そうした描写による具体的な問題はなんだったのか?ということです。これが、事務局担当であれ、教育委員であれ、その人々の「個人的な価値観」を判断材料に決定したものであれば、行政決定として、まったく正統性がありません。少なくとも、自分自身小学生時代に読んだ記憶がありますが、自らの精神発達に悪影響を及ぼしたと思うことはありません。

一方で、こうした決定をするに至った背景として、例えば子どもが「はだしのゲン」を読んで、面白半分で誰かをバカにしたりするような問題が発生していた可能性もありますし、非常に多くの保護者・市民から、「問題だ」とする意見があったのかもしれません。一律の閉架措置は行き過ぎかもしれませんが、決定背景として考慮すべき問題があって、きちんとした意思決定プロセスで決められた話なら、たとえば低学年の生徒が読む場合には、親や教師が何らかの配慮をするというのは、検討すべきことだともいえます。それを、「はだしのゲンは子どもであっても読む価値があるのだ」と批判するのは、これまた逆に、ひとつの個人的価値観の押し付けにすぎません。

いずれにせよ、なぜ今回のような決定を行うにいたったのか、その課題背景としてどのような事実があったのかなかったのかをきちんと調べて報道することは、マスコミが本来なすべきことだとゴゴは考えます。
(不確かな情報ですが、反戦=左翼的思想に反感を持つ右翼系団体が圧力をかけていた、というハナシもあるようです。これが理由というは個人的には眉唾ですが、何を材料に今回の決定を行うにいたったのか、興味のあるところです。)

というワケで、ネタ切れの中での埋め草程度に思った話が長くなってしまいましたが、漫画の内容のいい悪いではなくて、行政決定としてのプロセス・背景理由の妥当性を考えましょうね、というハナシでした。

 

ゴゴログ、本来はある程度のストックネタを終えたら、時事ニュースに即した本質解説をすることを予定していたのですが、自民党が政権をとってこのかた、許認可権について勘違いも甚だしい某マキコ大臣とか、表面的な理屈で大衆受けを狙うだけの某大阪市長とか、本質論でさくっと切るのにちょうどいい香ばしい人々が、最近あまり表にでてこないので、なかなか筆が進みません。(ルーピーなぽっぽさんなどは、振れすぎてて切るにも値しないし、民主党も問責決議で何したいやら。。)

というワケで、これまた時事ネタでもなんでもないですが、昔から考えていた話をネタとして、集団犯罪の罪と罰のバランスについて考えたいと思います。


ちょうど、2ちゃんねるを見ていたら、参考になる事例がありました。
「高校2年生だった少女は、遊び仲間と約3時間半にわたってAさんの全身を殴ったり蹴ったりし、失血を伴う呼吸不全で死なせるなどした(傷害致死事案)。これについて、水戸地裁は求刑通り3年以上4年以下の不定期刑を言い渡した。」

この事件では、他に「主犯格」とされる別の3人が関与していることや、少女が未成年であることも量刑上考慮されたのだと思いますが、どうなんですかね、これ?長時間に渡って1人を暴行して死なせといて、3~4年って。。

こういう集団的な暴行事件では、主犯格とされる者が最も多い量刑となり、その他の共犯者は、加担割合に応じて量刑が減じられていることが一般的であるように思われます。(しかも、主犯格の量刑も、単独犯の量刑とそう変わらないか、少し軽い印象。。集団責任?)

しかし、いくつかの観点から、こうした量刑判断に対して、ゴゴ個人的には、非常に納得いかない気持ちを感じます。まず、第一に、一人の人間に集団でもって暴行を加えて死に至らしめる行為というのは、単に一人の人間を殺したという結果を超えて、集団でもって一人の人間の自由やと生きる権利を著しく侵害し、個人の人権という、法的観念において守るべき価値(これを「法益」といいます)に照らして、単独犯罪に比して格段に卑劣な犯罪行為だと考えられます。だとすると、集団による暴行・殺害事件については、単独犯罪に比して重い罰を科することが妥当ではないかと考えます。(法益観点)

次に、犯罪抑止のインセンティブから考えても、犯罪行為に至るプロセスにおいて、誰かが行為を止めうる判断力と責任を求められるはずだ、という考え方もできます。単独犯の場合、個人の感情など事情はともあれ、一人の人間がその独特な心理の中で犯罪を行うものであるため、第三者が行為を止める機会はそうないと思われます。しかし、集団犯罪においては、誰かが何らかの加害行為を開始した際、他の人間には集団心理に流されて行為に加わるか、逆にそれを抑止するかといった選択判断の余地があります。ここにおいて、犯罪抑止という社会的責任を果たさない場合には、主犯格と同様に大きなペナルティが発生することを明確にして、犯罪抑止へのインセンティブを高められるのではないか、ということです。(犯罪インセンティブ観点)

この二つの観点を考えあわせると、
・集団的な暴行事件など、複数の人間が集団/組織でもって個人の基本的人権を害する犯罪については、単独犯罪よりも重い罪・量刑とする。
・上記のような集団的犯罪に加わった者については、強要があった等の特別の事情のない限りは、全員に対して等しく、上記の重罰を科する。
とすることが妥当ではないか?というのが、ゴゴの考え方です。

今回の件では、そもそもが傷害致死となっていますが(こんなの、未必の故意で殺人罪にならんのかね?)、これが集団による殺人罪にあたるケースなら、法益観点からも犯罪インセンティブの観点からも、全員等しく死刑または無期懲役でいいんじゃないの、そしたら安易にリンチに加わって人を殺すような事件も減るんじゃないですかね?と、心底思ってます。
(いくらニュースになってもパチンコで子どもを死なす親が後を絶たないのを考えれば、人間なんてそう合理的ではなく、犯罪件数は変わらないという見方もありますが。。。)

ちなみに、豆知識ですが、主犯格と共犯者というのは結構あいまいな言い方で、共同して罪をなすものは、等しく「正犯」者にあたります。上記の少女は、「共同正犯者」であって、「従犯者」ではないですから、単に主犯格でないから責任が低い、ってもんでもありません。

 ※刑法第60条
  (共同正犯)
第六十条  二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする。

さてさて、ゴゴはかつて法学部生でありながら、ロクに法律を勉強しなかったのですが、どうなんでしょう・・・?量刑に関しては、他の犯罪行為との量刑比較といった横並びがあることくらいは理解していますが、様々なケースにおいて、被害者の人権と、加害者の自律的責任の両面において、そもそも法が想定する「個人」の位置づけが弱いように感じます。これは民法や刑法などの基本的な法律が明治時代に作られていることを考えれば、ある意味当然なんでしょうけど、そう考えれば、憲法なんかよりも、刑法を現代の価値観に照らして見直した方がよっぽど意義あるんじゃないでしょうか。

こういう点でオカシイ、というプロ筋の見方があれば、是非教えてさいませ。
 

今回の橋下氏の発言、議論するまでなく論外だと思ったら、意外に「間違ってない」と支持する意見も聞かれるので、微妙な問題な問題もあって書きにくいなあと思いつつ、話を整理しつつ、今回の問題の本質を掘り下げようと思います。


まず、今回の件については、
・橋下氏の話した歴史的認識は正しいか
・マスコミの報道のあり方は適切であったか
という観点から、賛否両論渦巻いているようです。

ゴゴ的には、米軍司令官への話しは置いておいて、慰安婦に関する見解については、大きくは異論ありません。特に、昨今は韓国側が、アメリカの州議会などへの活動の中で、慰安婦は日本軍が現地女性を強制連行し、拉致暴行したものとして非難決議を出させたり、慰安婦像を設立して反日感情を煽るなど、何を意図しているのか良くわからない挑発的な行動を起こしており、これを糺したいという気持ちはよくわかります。

(橋下氏も言う通り、だまされたりして慰安婦になってしまった人のつらさは変わりないでしょうが、国家として・軍隊として強制連行していたのか、当時、戦時の商業活動として存在した一種の公娼制度を利用していたのかは、過去とはいえ日本の国家イメージを左右する大きな違いだと思います。)

また、朝日新聞をはじめとする一部マスコミの報道姿勢にも、問題はあると思います。海外紙として有名はニューヨークタイムス(NYT)の日本支局は朝日新聞東京本社の中にオフィスをもっており、NYTの日系記者が日本を不当に貶める記事を書いたものを、朝日新聞が「海外から問題視されている」等とマッチポンプ報道している、というのはネット界では長年語られてきた話で、事の真偽は分からないものの、今回の騒動では、なぜ氏の発言を不当に大きく問題化させるような報道の仕方をしたのか、非常にその意図を疑わせるものではあります。


しかしながら、それでも橋下氏の今回の発言はそもそも言うべきではなかったし、その後の抗弁はさらに問題を大きくしていると、ゴゴは考えています。

まず、ぶら下がり会見でこの話が出てきた経緯は、「村山談話」をおかしいとした武市政調会長の発言をどう思うか?という質問に端を発しています。この件については、安倍総理や石破幹事長が、政府としての見解とは異なると即座に火消しに回っています。話を蒸し返したところで、外交的に何も得るものがないことをきちんと理解しているからで、橋下氏としても、この質問に対しては、「政府見解のとおり」として、余計なことを言わないのがスジであったと思います。ところが、聞かれてもいない慰安婦の話に踏み込み、その後さらにズルズルと余計なことを話して結果的に問題を大きくしてしまったのは、国政に影響力ある政治家としては、完全にバツです。

さらに問題なのは、この発言が批判された後(歴史認識の違いからのサヨク的な批判など反論したくなる気持ちは分かりますが)、自分は間違っていない、他国も同じことをやっていた、反論すべきを反論しない政治家もおかしいなど、問題を他にすりかえるような発言を続けて、さらに話をややこしくしていることです。繰り返しますが、氏の発言の問題は、認識の正しい正しくないではなく、微妙な外交問題に関して、何の得にもならない話を、不用意にしてしまったこと、これにつきます。話してしまったことについては、「報道の在り方は真意ではないが、誤解をあたえるような発言は不適切だった」と認めて、あとは黙って火が消えるのを待つべきだと思います。

今回の騒動では、発言の一部を切り取るマスコミの偏向的な報道姿勢も問題ですが、発言の経緯となるコンテキストを理解せず、橋下氏の発言内容だけを見て「そう間違っていない」と考えるのは、全体を見ずに一部だけを見て判断をしているという意味で、同じ過ちを犯していると思います。しかしながら、現状、お互いに部分部分だけを見て、「許されざる女性蔑視だ」「いや、慰安婦問題は・・・だ」と、かみ合わない対立の芽が今回の件で伸びてしまった感がありますが、こんな議論をしても、それこそ何の得にもなりません。「くさいものにフタ」というのは、正論好きな人には耐えられないかもしれませんが、現実的には必ずしも悪くない方策です。

中韓の反日工作や挑発的行動には是々非々で対応しながら、不要な改憲議論や歴史認識の修正にはまることなく、年金医療問題や有効な成長戦略のギロンにフォーカスすることが、今日の政治にとって最も必要なことだと、ゴゴは考えます。

 ・橋下市長ぶら下がり会見書き起こし全文

5月3日の憲法記念日を過ぎて、少し旬をはずしてますが、今回のゴゴログは、最近話題の改憲論についてです。

直近の焦点は、96条の改正プロセスについてですが、ゴゴ個人としては、改正成立には国民投票有権者の過半数の賛成が必要という要件が維持されるなら、発議要件が2/3だろうが1/2だろうが、どっちゃでもいいと思ってます。

本当に考えるべきなのは、今の憲法によって、国として出来ないとされていることは何であり、それをどうしたいのか?ということに尽きると思います。ちなみに、ゴゴの結論を先に言っておくと、憲法変えないとできないことなんて、特にないんじゃないの、です。

日本国憲法というのは、結構抽象度を上げた記述になっており、実質的な内容は、下位法規である各種法令に委任する形になっています。その上で、仮に各種法令や具体的な行政行為が憲法の「趣旨」に違反する場合には、それは無効になりますよ、という形で国権の無制限な発動を抑止する構造です。

(参考:日本国憲法第98条)
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

なので、ある法律案や具体的な政府の行動が検討されていて、それが現行憲法では第何条に違反することになる、だから憲法を変えないといけない、という議論なら分かりますが、特にそうした話を聞くことはありません。国の形を大きく変える道州制でさえ、現行憲法下でそのまま実現可能なくらい、柔軟な構成なのです。

特に具体的な論点がない中で憲法の条文をいじりにいく、しかもその理由が敗戦でアメリカから押し付けられただの、前文が気に食わないからだのといったハナシは、滑稽極まりない、暇も極まるものだと、ゴゴは考えています。それで何か具体的な問題が発生してるんですかね?


ところで。。少し話が飛びますが、前回安倍政権の時に、とある法律をめぐって似たような議論があったのを覚えていますか?

2006年に、戦後初めてとなる教育基本法改正が行われました。その時の改正議論の背景と今回の改憲論の背景は、非常に似通っています。愛国心を盛り込めとか、賛否色々ありましたが、改正されて今に至っています。そして7年、教育の何が変わったのか?教育基本法では、以下のような条文が最後にあります。

(教育基本法第18条)
第十八条 この法律に規定する諸条項を実施するため、必要な法令が制定されなければならない。

つまり、基本法を変えただけでは何も変わらず、関連法令や新基本法に基づいた行政運営を実際に行わない限り何も変わらないのは、条文通り自明のことですが、結局その後、関連法令の整備も行われず、大騒ぎした割には教育の実体は何も変わっていないように思われます。

(参考)
教育基本法の新旧対照表

教育基本法改正で何が変わった?(ネットQAサイトでの問答)


96条を変えた後に、どのような実質の改憲を考えているかの提示をするべきとの慎重意見は常識的なラインではありますが、もっと端的に、実質改憲の先に想定する関連法制の整備として何かあるのか?と聞くのがスジでありましょう。
(そういう質問をマスコミ記者の方にはお願いしたいところ。そうすりゃ、某大臣にバカにされることもなくなるかと。)

さらに言えば、中身のない改憲論にで政治的混乱リスクが高くて実利の薄い議論をするよりも、明確かつ重大なリスクである年金医療費対策と少子化対策、そして成長戦略の具現化に努めるのがこれまたスジ、とゴゴは思っています。

夏の参院選、だれが改憲論を声高に叫ぶのか、逆に楽しみですね。。笑

年度の期末期初のバタバタで、かなり間があいてしまいました。。。久々の今回は、官僚が社会問題を解決するために、マスコミから叩かれながらも日夜努力しているのに、なかなか国の政策が成果につながらなのはなぜか、という話しです。

なお、今回の記事は、愛読している知人のFBエントリー
 自分の頑張りはみんなが幸せになる頑張りか?
で、間違ったシステムの上でどんなに人々が頑張っても良い結果にはつながらない、なのでサービスや政策の「デザイン」が重要なのだ、との趣旨の記事がありまして、それに寄せてコメントした内容をもとにしていますので、良ければこちらもご覧ください。

(ちなみに、デザインというアプローチには、ロジック偏重な方法論を超えたチカラがあると、個人的にとても興味を持っています。)


国として行う政策の成果が上がらない原因には、企画と執行が国と地方などに別れていて改善プロセスが回らないとか、天下り団体を養うためためにつまらない補助金を維持し続けている(残念ながら、これは確かに一部真実です)とか、いくつかの理由があります。

しかし、それらに加えて、そもそもモノゴトを考える上での価値観がズレていることもそのうちの一つだ、というのが、官僚の世界とビジネス、両方を経験したゴゴなりの考察です。

まず官僚というのは、法律案を作るのが主な仕事の一つなのですが、法律ってのは、「善悪」の価値感で一定の行動を規制し、違反すれば罰を与える、という考え方・構成が基本です。(振興法とか、そうでないものもありますけどね。)

補助金制度なども、裏付けとなる法律のもとに作られるわけですが、補助金の活用に際しては、どこかで公的な誰かが、申請に対して法の趣旨にのっとり、「良い・悪い」を判断するプロセスが必要とされます。

一方で、世の中の普通の人々は「損得」の価値観で動く部分も大きいワケです。もちろん違法なことはダメですが、善悪が特にハッキリしないことも多いの中で、何をすればトクか?と考えて動くことは、まあアタリマエの行動ですよね。

なので、目標とする状態の実現に対して、いかに個人や企業を動かせるのか、適切な行動インセンティブを盛り込んだシステム(別の言い方では「ゲーム」)の設計ができるかが政策立案上、本来は重要なのです。

しかし、官僚というのは、「損得」とは異なる価値観の中で育っているので、正直なところ、「一定のインセンティブをもとにした行動ゲームの設計」というものには、そもそも強みはないわけです。

また、個々の行動が善悪を抜きにして、ただし全体としては望ましい結果につながるといっても、下手すると、「個人の私利私欲(あるいはその結果起きた問題の解決)に税金を使うのか?」みたいな、短視眼的な善悪議論に巻き込まれることになったりすることを官僚は肌身で知っているので、どうしても、「善悪」でスパッと切り分けられるような制度設計に傾きがちです。

と言うわけで、個々の損得の積み上げ合計ではなく、一つ一つの行動の善悪を切り分けるような制度設計をする結果、やりたい趣旨は分かるけど、誰がそれに乗って実際動くの?と不思議な補助金制度ができたり、あまりにも実態からかけ離れたとんでもない規制ができたりすることがあるわけです。

例えば、以前の記事で言及した、保育園制度も、「保育に欠ける」という「善」の基準をクリアしたものだけが格安の認可保育所に入れるという、画一的で柔軟性を欠いたシステムであるが故に、問題が解決しないワケです。

また、先日施行された契約社員の5年上限制も、善悪でいえば分かるものの、成果につながらないワナにはまることでしょう。逆に、派遣法の改正で、派遣会社売り上げの中での賃金とその他マージンの比率を開示させるようになったことは、労働者の「損得」で派遣会社間の選択を促すという、なかなか良い打ち手とゴゴは見ています。


・・・じゃあどうすればいいの?というところですが、役所の中でシステムデザインする仕事と、その中で立法が必要な部分を法文化する仕事を分けて、かつその両方を理解してディレクションできる人材が育てられるといいんですけど、こういう価値観の違いによる課題解決上の問題や、システムデザイン的な考え方は、まだまだ役所の世界では一般認識ではないと思われるので、そう簡単には役所の政策立案能力は変わらないだろうな、と思います。

一方で、役所の外側ではソーシャルなサービスに取り組むプレーヤーが出てきているので、政策的なサービスの企画と執行は彼らの役割と割り切って、官僚は後追いで必要な法制度の整備と予算の獲得に特化して分業する、というのが、早道かもしれません。

その場合は、社会の問題を解決するのは官僚ではない、官僚はあくまでも解決に取り組むプレーヤーのサポート役なのだ、との、中の人・外の人の認識転換が必要ですね。

こんなこと言うと少し嫌な気分になる官僚時代の仲間もいるかもしれませんが、世の中の問題を何でもかんでも官僚のせいにして、結局何にも変わらないなんて状況より、よっぽど健全だとゴゴ思っています。

ね、マスコミのみなさん!

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