ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

カテゴリ: 教養・スキル

あまり関心そそられる時事ネタもないので、ちょっとヨタ話的に、これまたずっと考えている、論理と感性についての考察。

世の中、本屋でもロジカルシンキング系のビジネス書大流行りで、ビジネスシーンでは、論理的正しさを仮説検証するようなスタイルがどんどん拡大しているように思います。

まあ、確かに論理性があいまいなままに、空気でモノゴト決めるよりはよっぽどマトモですが、ちょっと、「ロジック万能」みたいに行き過ぎている気もします。

先日も、就職活動中の学生さんと話す機会があったのですが、「正しい会社選択」に迷っていて、会話からも、常に論理的でありたいという姿勢を感じたので、こう聞いて見ました。

「知識って、有史以来の蓄積だから有限だよね?じゃあ、世の中の全ての知識を身につけたとして、論理的に正しく積み上げたら、唯一の正解にたどり着けると思う?」

彼は、その問いに対して、yesかnoかの答えを出せってコトですか?と聞いて来たので、yes/noの答えそのものには、たいして意味ないよ、と返すと、さらに悩み始めました。

こちらは、禅僧の師にでもなった気分で、彼が悩む姿をサカナに、楽しくお酒が進んだワケですが。。笑。みなさんなら、どう答えますか?


答えは簡単で、ゴゴの答えはnoなんですが、それは、どんな意見や結論も、論理では掘り下げられなくなる、とある価値観を出発点に組み立てられているのだから、感性が違えば、お互いどれだけ精緻なロジックを組み上げても、答えは自ずと変わってくるから、ということです。
(もっと簡単に言えば、例えばどんな顔が好みか言い争ったところで、正解なんかないでしょ、ということ。最後は、好きなもんな好き、嫌いなもんは嫌いとしが、説明しようがないですよね。)

なので、この問いで重要なことは、答えそのものではなく、人が寄って立つ感性や価値観の違いにこそ意味があるのであって、論理的正しさには、そこまでの意味はないんじゃないの?という点です。理屈っぽいゴゴが言うと、意外に思う人多いかも知れませんが。。

そんなワケで、個人的にはデザインやアートといった、論理だけでは割り切れない分野に関心を持っている、今日この頃です。

※この記事は、「大学に行って何の役に立つのか?」(1~3)という記事のおまけ記事です。

数学・哲学の重要性は分かったものの、大学でも教えてくれないのに、じゃあどうやって勉強するの?というところまで語ってこそ、実践的な意味があろうというもの。おまけ編として、自分がどうやって学んできたのか、具体的な方法を紹介します。

<数学>
・森毅先生(今は亡き京大の名物数学教授)の、ほどほどに数学っぽい適当な文庫本エッセイを読む。
(このあたりとか?もう手に入るのが少なそうですね。「居直り数学のすすめ」とか良かったと思うんですけど。)
  数学受験術指南 (中公文庫)

・大学の数学(増刊号だったかな?)で、「問題を見たらすぐ解説を読む」、を繰り返す。

<哲学>
・竹田青嗣の哲学入門を読む。
  「自分を知るための哲学入門」 (ちくま学芸文庫)


「え、たったこれだけ?」 はい、そうです。(笑) ここまで色々エラそうなこと語っている割に、数学・哲学に関しての大学までのインプットなんて、こんなもんです。なので、それぞれ専門でやってる方からすれば、自らの土台としてもっている知識量は、基礎も基礎、初心者レベルです。前回、大学教育も工夫すれば、内容は簡単で良いのだ、と書きましたが、自らの経験から自信をもって言えます。 (単なるサボりの言い訳?)


以下、一応の補足。半分はヨタ話なので、勉強したい人は以上まででも十分です。

森毅先生の本は、中学生くらいの時に読んだと思うのですが、その中に、「数学を学ぶには、近所の山で遊ぶように、ただ近道をいこうとせず、あっちいったりこっちいったりするのがええ。初めは迷い迷いでも、あちこちで遊んでいるうちに山の中のことは全体が頭に入る。それを近道だけ通るように正解ばかり求めてたら、結局は何も分からず通り過ぎるだけや」(ホントにこんな感じの文体)みたいなことが書かれていた記憶があります。

実は、自分はずう~っと数学テストはダメダメで、高校時代は洛星高校という、京都にあるまあそこそこの進学校の中とはいえ、赤点連発・偏差値40台でどうせ出ても分からんからと木曜1限・2限と続く数学の時間は下宿先でサボりを決め込み、3限の体育から徒歩5分の学校に行く、なんて生活をしてました。これ、誇張抜きにホントの話。

ただ、モリキ先生の本のおかげで、出来ないにしても数学そのものは嫌いではなかったというか、アレルギーみたいなものはなく、なぜか興味が湧いた数列だけは徹底的に勉強したりしつつも、「近所の山」を探索することなく、別のとこで遊び呆ける日々でした。サボりなうえに高校生から下宿生活してたもんで。。

で、当然浪人。さすがにちゃんと勉強せなあかんなと、いつものごとく1周おくれて尻に火がついて、手に取ったのが「大学への数学」なわけです。この本、基本は難関大理系向きな本とされているのですが、難しい数学の問題に対するビューティフルな解答方法が、とても丁寧に書かれているわけです。ごちゃごちゃ汚い数式計算をさせるような解法ではなく、これこそ数学!(数学好きじゃないと分からんか)ってな感じの、切り口のキレイな解き方がたくさん載っているので、実は、計算とか大嫌いな数学苦手な人向きと言えます。

とはいえ、数学できない人間がいきなり挑んで解けるわけはありません。そこで、サボりマンらしくとてもいい方法を編み出しました!それは、 「問題を読み込んだら、即座に解答を見る。」 だって、解き方分からんのだから、ウンウン悩んでも時間のムダです。で、バンバン問題をこなしました。といっても、問題読んで、解説見て、なので、解けない問題の前で悩み続けるようなシンドさはありません。

「この問題って、こういうアプローチで解いたらええんか、なるほど。」「お、これ前見たのと基本同じアプローチでとけるな。」と、問題&解説をたくさん見てると、パターン認識が高まります。1週間くらいだったかで、ひと通り本を目を通したら、2週目は問題みてからさっとアプローチと大体の数式をイメージするようにしてから、やはりすぐに解説を見る。イメージがあっているかの答えあわせですね。

実際の計算をして完全に解こうとするとやはり時間がかかるので、「数学の問題へのアプローチ法」についてのパターン蓄積をつづけました。結果、現役時代、校内偏差値40台だったゴゴ君は、浪人生秋の京大模試で、全国3位・偏差値80台(ドヤ顔)という、まさにドラゴン桜もびっくりな結果をたたき出したのです。

なんかズルい、邪道じゃない?と思った人もいるかもしれませんが、振り返って考えても、この勉強法は「教養」として数学を学ぶ人には最良の方法だと、自信をもってお勧めできます。もちろん、ある程度はじっくり考える・問題を完全に解くということも必要ですが、「パターン認識」というのは、論理的思考力を高める上で非常に重要なカギだからです。

例えばコンサルがなぜコンサルとして活躍できるかと言うと、かなりの部分はパターン蓄積によるものと言えます。いわゆる地頭力、フェルミ推定的な思考力が重要と言われますが、これも詰まるところ、似たような問題をやってれば、多分誰でもそこそこ出来るようになります。その上で、たくさんのケースにあたることによって、さらにビジネス実践的なパターンをさらに蓄積しているのです。

とはいえ、数学の勉強はそれなりに時間がかかりますし、やはり学生時代じゃないとやり通すにはしんどいです。大学受験の時が、必要に迫られるので一番最適ですが、数学やらずに大学生になった人は、まだ間に合うのでぜひやってみてさい。社会人の人は。。。もし気合があるならトライしてみてください。


逆に、哲学の「勉強」は、ある意味超簡単です。上で挙げた「哲学入門」とか、その他気が合う入門書レベルの本を読めば、インプットは終わりです。社会人になってからでも、すぐにできます。ただし、哲学的思考というのは、哲学的なスタンスで思考を重ねることそのものなので、磨いていくのにとても時間がかかります。仕事や日常でいろんな問題にぶつかりながら、自分の身の回りのモノゴトを、表面的なところで終わらせずに、本質や価値観というレベルで見つめることを何度も経験しながら、おそらく死ぬまでずっと深まっていくものです。

なので、勉強するのに遅すぎることはありませんが、やはりできるなら、若いうちから哲学的な思考のスタンスを身に付けておく方が、その後のいろんな経験の中で思考を深められる機会が増します。
※関心あれば、西研先生のホームページなんかもおススメ。
  西研ホームページ


かなり長くなってしまいましたが、ゴゴログでいつまでも教育論をやりたいわけではないので、教育関係の話は全部吐き出して、いったんこれで終了です。

(この他、教育関係については、学校の組織マネジメントや文教政策のマネジメントという話も一応あるのですが、これはマネジメント論の中で、ひょっとしたら、いずれ。かわりに一冊書籍を推薦しておきます。
・岡本薫  日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

これを読めば、ゴゴが考える、学校組織や教育政策マネジメント関する課題感はカバーされてます。そのあたり関心ある方はどうぞ。)





本当は二回で終わると思ってたのですが、長くなってしまいました。。大学で教えるべき「教養」として挙げた中で、数学と哲学がどう役に立つのか?という話です。

まず、数学についてですが、数学というのは研究レベルの話は別として、一般的には、

・具体的なモノゴトを、抽象化したカタマリに分解する 
  (=○○をX、△△をYとする)
・あるカタマリと別のカタマリの関係性を構造化/モデル化する 
  (=XとYの関係式を立てる)
・モノゴトの前提が変化した時の結果を予測をする 
  (=Xを仮に2とした場合、Yは~)

というアタマの使い方を身に付けるための学問です。「数学」と聞くと、カッコ内に書いた方をイメージする人が多いと思います。でも、カッコの部分を除けて、あらためて見てください。「モノゴトを分類し、関係性を見つけ、違う場合の結果を予測する(あるいは評価する)」と見てみると、ほとんどの仕事で求められるプロセスと同じではないでしょうか?

つまるところ、数学というのは、多くの人がキライな「数の計算」を行うための学問ではなく、合理的にモノゴトの因果関係をとらえ、普通に起こるレベルの変化に対応する能力を訓練するための学問です。
(個人的な所感ですが、数学に親しんだ人は、数を扱わない事務屋的な仕事でも、理解力や処理能力がかなり高いことが多いです。いわゆる理系脳ってやつでしょうか。まあ、計算はできても。。って人もいますが。)

あと、最近はネットサービスの裏側で統計処理が使われていたり、まさに数学、といったモデルを、せめて概念レベくらいは理解できないとシンドイことも多いので、数学はやはり必須の教養だと思います。


さて、長くなってしまいますが、哲学についても一気にいきます。

哲学は、モノゴトの本質を深く掘り下げて、表面を見ているだけでは分からない「実体」をつかんだり、あるいは、実体・本質の底にある「価値観」の違いを認識し、どう理屈を重ねても相容れない矛盾や混沌、対立状況の中で、あるべき目的やスジ・義を失わずに考えを重ねられるようになるための学問です。
(なので、本当は難解な用語や文章を理解して「フツーの人」には分からない高尚な議論をするためのもの、ではないのですが。。)

上で述べたようなシチュエーションは、面倒な説明をせずとも、普通に仕事や日常の生活の中で日々発生していますよね。しかし、本質をつかまないまま間違ったゴール設定をしたり、噛み合わない議論の中で事が進まなくなる・中途半端な妥協案で終わるということは、話に尽きません。(そしてこれこそ、「ニホンの会社」がダメになった本質だと思います。戦前に高等教育を受けていた人達は、きちんと哲学的思考を教養として身につけていたようですが、今や失って久しい、という状況です。。)

最近は、グローバルに活躍する人材を育てるために英語教育に力を入れよう、ってな話が盛んに聞こえてきます。確かに、英語が出来るようになることは悪くない、やった方がいいでしょう。でも、英語が話せても、哲学的な思考力がない人は、異文化の中でリーダーシップを発揮することはできないと思います。


誰しも、英語は出来るけど手足にしかならない人材になりたい、育てたいわけではないでしょう。それであれば、英語の前にキチンと数学的な論理的思考力や哲学的素養を学ばせるのが、グローバルであろうとなかろうと、社会で活躍する人材を育てるために、大学が本来果たすべき責任だと考えます。

そしてまた、教える目的と方法を工夫すれば、普通の社会人が活用するレベルの内容は、数学も哲学もそんなに難しくする必要はないはずです。研究の先端を求めることやその道の研究者を育てることと、学部レベルの学問の内容は違ってしかるべきです。こうしたことを怠ってきたことが、「行っても役に立たない日本の大学」を生み出したのだと思います。

ただ、最近はリベラルアーツに力を入れる大学も出てきたり、そうした新進の大学が企業の採用担当から評価されたりといったことも、チラホラ聞かれるようになってきました。大学を潰すつぶさないの表面的な議論ではなく、こうしたあるべき高等教育をどう広く実現していくかに、政府も大学側も取り組んでいくことを願います。

前回、今の日本の大学では、学問という観点で個人が社会に出て役に立つようなことはほとんどない、本当に教えるべきは「教養」であり、カギは数学と哲学だ、とお話ししました。今回は、そのつづきです。

まず、「教養」とは何か、ですが、日本語で言う教養には、雑多な物事の薀蓄を知っていることだったり、知識を多く蓄えていることをベースとした、人間の品性に関わることだったり、色んな意味があります。

しかし、今回お話ししたい、大学で教えるべき教養とはそういうことではなくて、リベラル・アーツ、「自由な存在であるための知識・技法」のことを言っています。
(で、何でそういう意味での教養なの?というところは、後で説明します。「社会に出て個人の役に立つ学問、というテーマから、少し遠くなってしまうので。。ヒントというか、ほとんど答えは初回の記事を見ていただければ分かるかと思いますが。)

こうした、「自由な存在であるための知識・技法」という観点から考えた場合、数学・哲学の他に、ディベートなどの議論のための技術、そして現代的には、ITブログラミングや、デザインによる視覚的な表現技法を、「教養」として教えるのが適当だと考えます。特にプログラミングやデザインといった、「作って、見せて、納得させられる」技術は、スピードが求められるにも関わらず理屈にばかりにこだわり、結局はチャンスを逃すというありがちなワナから、個人が脱するための重要な技術だと思います。

ただ、それらの現代的な技術には、強力な「場を動かす力」がありますが、使えるシーンや相手、タイミングが限られます。(例えばITでもデザイン企業でもない普通の会社に勤める人なら、なんの議論もなく、いきなりプログラムを動かしたりスケッチを見せるだけでは、必ずしも人や組織を動かせないことは当然のことと理解いただけるでしょう。) やはり、ロジックやスジ・本質といった、根本的な「考える力」がどんなシーンでも求められるのであり、その「考える力」を磨くための材料として、数学や哲学はうってつけの学問なのです。

で、数学や哲学といった、小難しそうで回りくどそうで現実から離れたようなイメージの学問を学ぶことが、社会で活躍するための「考える力」に結びつくのか?ということですが・・・思ったより長くなってしまったので、また次回に分けさせてください。


しかし、整理するとこんなにかかるとは。。これだけの内容の下地を共有せずに、これまでFacebookなどで断片的に色々コメントしてたのかと思うと、ちょっと何とも言えない感じですね。勝手につぶやいてただけなので、誰かに迷惑かけてたワケではないと思いますが、独りよがりというか。。単に今回のまとめ方が悪いだけかもしれませんけど。もっと短くしろとか、分かりにくいとか、率直な感想あればお待ちしています。

(つづく)

ゴゴログ第二弾、引き続き教育論ですが、今日は角度を変えて、個人にとって役に立つ大学教育について考えます。

まず、少し極端な結論から言うと、今の日本の大学は、学問という観点で、社会に出てから役に立つことはほとんどありません。大学で講義をひたすら聞いて暗記したり板書を書き写したりして、一生懸命取った単位の内容は、よっぽど関連した専門領域に進むのではない限り、世の中に出てからの活用価値はほぼゼロです。

もちろん、大学卒、特に有名大学出というタイトルを得ることは総じてトクですし、学生生活の中で色んな体験や友人との交流を重ねることは人生においてとても大切な経験なので、「大学に行くこと」自体は価値があります。行けるなら、極力大学に行くこと方が良いと思います。

しかし、大学が本来提供すべき「学問」というコンテンツは、ほとんどが人生において役に立ちません。まさに、友人からノートを借りて効率よく単位を取得し、講義に出るかわりに自分の興味関心に時間を費やす方がよっぽどマシ、というのが日本の大学教育の現状だと思います。

では、大学では勉強なんかせずに遊んでいればいいのか?といえば、本来はそんなことはないはずです。現に、今の大学生は質が低い、役に立たないと叩かれているわけで、それは彼ら自身の問題というより、本来大学が提供すべき学問というコンテンツ・質が、日本では十分に足りていない、ということです。

(ちなみに、叩いているオトナも実はたいして偉くないのですが、知の国際競争の中で、社会人に求められるレベルが上がっているので、組織として大学生に求めるレベルが上がっている、という構造です。大学生諸君、キミ達は少なくともバカにされて卑屈になることはありません。バカにしているエラそうな人たちは、今の時代に生まれていたら、もっとバカだつたはずです。ここからどう生きていくかが勝負です。)

そこで、本来、大学が提供すべき学問コンテンツとは何か?ですが、ゴゴの意見は、「教養」です。最近は池上彰さんなどもそういう主張・活動をしておられるので、少しは違和感がなくなってきているかもしれません。じゃあ、「教養」って何よ?どうやって学ぶのよ?という話になるわけですが、長くなるので、そこは次回。カギは数学と哲学、とだけ予告しておきましょう。実学志向とは真逆の二大学問が、なぜ社会に出て役に立つのか・・・お楽しみに。

(つづく)

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