ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

カテゴリ: 教養・スキル

前々から一度書きたいと思ってたテーマなのだけど、東大が地方女子を対象に3万円家賃補助するとのニュースを見てちょうどいい例だと思ったので書くことにする。一言でいうと、企画力がある・ないとはどういうことか?という話である。


まず、一般的にはどうなのかは知らないけど、個人的には「問題」と「課題」という言葉を割と意識して使い分けている。問題と課題は別のものだ。
 
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昨日、ツイッターのタイムラインにこんなのが流れてきました。

ロジカルシンキング
https://twitter.com/partyhike/status/606377029265530881


これはなかなか本質をついた面白いネタだなあと思ったんですが、つまるところ人の意見なんてものは、根っこにある好き嫌いやら、何らかの価値観の上に理屈が乗っかってるだけ、と見ることができます。(おっさんとして、おっさんだけが悪いわけではないと擁護。。)


さて、「ロジカルシンキング」というスキル、デキる社会人を目指す人には必須のアイテムですよね。MECEやらロジックツリーやらそういうやつです。本屋のビジネス書のコーナーにいけば、たくさんこの類の説明本が並んでいます。

では、ロジカルシンキングを身に着けて、何をするか?いろんな場面での使い方がありますが、「人との議論に勝てるようになりたい」「他人を説得するための武器として身に着けたい」と考えている人も多いんじゃないですかね?


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9月5日の最終出社から、ちょうど2週間。
先週は沖縄に家族旅行に行き、今週はもともとは海外の知人を訪ねつつ、シンガポール~LAあたりにプラプラ行こうと思っていたのですが、結局予定を詰め切らないまま、ほとんど予定のない1週間を過ごしております。

ちなみに、前回記事(リンク)は6600人の方に読んでいただいており、ゴゴログのPVも月半ばにして初の1万超えという、すばらしい「卒業祝い」をいただけました。ありがとうございます、引き続き、ゴゴログご愛顧ください。(笑)


そんなこんなでこのところ基本的に何事にも追われることなく、のんびり過ごしておったわけですが(スケジュール調整等お待たせしてる方にはサボりがばれるな。。先に謝っとこう。スミマセン!)、そんななか、大学時代からの旧友K君がウチに遊びにやってきました。

K君も2年前に会社を辞めて、元々好きだった靴の世界を追い求めるべくイタリアに行ってしまったという、プラプラの師匠とでもいうべきヤツですが、久々に帰国してきたので、お互いの近況を共有しつつ、旧交を温めた次第です。

で、彼がイタリアの語学学校で衝撃を受けた体験というのを教えてもらったんですが、それは授業の中で「もしイタリアを自分の好きなように作り変えられるとしたら、あなただったらどうするか?」という問いを出された時のこと。

K君は「イタリアの政治形態は今こうだから・・・うーん」と考えているそばで、ドイツ(だったかな?)から来ていた19歳の女の子が、「私だったらアルノ河をチョコレートの川に変えて・・・」みたいな話をしたらしい。

で、彼が何に驚いたかと言うと、その女の子のお花畑っぷり。。ではなくて、そういう突拍子もない話を臆することなく自らの意見として堂々と言える個人のスタイルや環境に対し、何も言う事ができなかった自分自身や日本との大きな違いを感じた、ということでありました。


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私事ながら、この9月末でこれまで6年と少し所属していたリクルート(現在はリクルートマーケティングパートナーズ)を「卒業」することとなり、去る9月5日をもちまして業務完了・最終出社とあいなりました。  

で、何で辞めるの?次どうするの?ってなところを聞きたくなるのが人の常ではありますが、まず、今後については、これまで兼業といいつつミニマムでしか関われていなかった某ファームでハーフコミット、週2日ほど働きます。で、後の半分は特に何をするとも決めず、少なくとも来年4月くらいまでは「プラプラ」する予定です。

で、何で辞めるの?と、プラプラって何?どういうこと?ってあたり、ここはこれまで周囲で聞かれても、軽い説明程度であまりちゃんと答えたことはなかったんですけど、特に成長志向の強い若い方にとって参考になる点あるだろうなということで、今回ゴゴログ記事としてお届けさせていただきます。 

まず入社以来の経歴を振り返ってみると、2008年の4月末で経済産業省を退職、翌5月1日から旧リクルートに入社したんですが、当初4年間は、全社の人事部門にいました。転職活動時には、それまで人事なんてまったく経験も関心もなく、人事と言えば「エンマ帳」とか人の評価する仕事くらいのイメージしたなかったんですが、担当した人事企画の仕事は、やってみると非常にトップマネジメントに近い仕事で、ドラッカースクールも経て経営に関心があった自分には結構合ってた仕事でした。

要員管理(各事業部門の状況や戦略を踏まえて人員の割り振りや調達を考える仕事)や人事制度改革、2012年の分社化に向けた組織課題の検討も担当し、方針検討〜全体広報が片付いたところで、やはりずっと人事ではなく事業をやりたいと、2012年4月から進学事業部門に事業企画担当として異動しました。(その年10月に会社分割、リクルートマーケティングパートナーズ所属に)



で、ここからが今日の本題。

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ごぶさたの前回記事から奇跡の連投ですが、全然ニュース関連でも何でもない、よもやまネタです。

最近ハマってるNews Picksを見てたら、こんな記事が紹介されてました。

先延ばしの誘惑から抜け出すためにはタスクを区切って取りかかろう

この記事では、やらなければいけないタスクをつい先延ばしにしてしまう誘惑に対抗するティップスとして、時間を区切って取り掛かる/ひと固まりのタスクに分解して取り掛かる/これらを組み合わせてやる、とい方法が紹介されてます。


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すみません、タイトル、ライフネット岩瀬氏のブログをパクってます。笑
(注:旧題は「入社7日目の明日から気をつけた方がいいこと」でしたが、もはや1年経ってイミフだと思いますので改題しました。2015.4.1)

入社2日目の明日から試して欲しいこと


新たに社会人になった若者に向けて書かれたこの記事、プチ炎上してすったもんだしたせいで、結局何が本当に重要なことなのかよくわからなくなった若い人たちも多いと思うので、これから社会に出て活躍していくために大切な、本質的なポイントを2つ、ゴゴログ流に解説しましょう。
(ちなみに、転職したばかりの人、これから転職しようとする人にも共通するハナシです)


その1~「信頼残高」という考え方

岩瀬氏のブログでは、新社会人へのススメとして、「毎朝、定時より30分前にきっちりした身なりで出社し、新聞を読んでなさい」と書かれています。見方によってはオールドスタイルなこうした社会人のあるべき像が、最初の炎上の対象になったわけですが、本当に重要なポイントは、その後に続いていた部分にあります。

簡単なことだが、もしこれを1年間、1日も欠かさず続けることができれば、1年後には皆さんの社内における信頼は確実に高まっていることだろう。

 昨年も同じ趣旨のことを書いたが、まず一年目に目指すべきは、社内で信頼される人間になることだ。きっちり仕事をする人だと信頼されている人には、多くの仕事が回ってきて、その分、成長も早くなる。
 
朝30分早く出社することや、毎朝欠かさず新聞を読むこと自体が重要なのではなく、いかにして組織内での自分に対する信用度を高めるか、これこそが新しく社会人になった人達が気をつけるべきことです。

聞いたことがある人も多いかと思いますが、「信頼残高」という考え方があります。もしあなたが何か良いアイディアがあって、新しい取り組みを始めたいと周囲に働きかけた時、単にアイディアが良ければ受け入れられて実現するかといえば、そう簡単でもありません。

ちょっとした改善提案くらいなら可能かもしれませんが、ヒト・カネ・時間といった何らかのリソースが必要な場合、そのアイディアに周囲や組織が乗ってくれるかどうかは、あなたの組織内での信頼度に大きく左右されます。信頼度が大きければ、ちょっと不安要素があるチャレンジでも認められる可能性が高くなりますが、信頼度が低ければ、本当にいいアイディアであっても、周囲は耳さえ傾けてくれない、ということも起こります。

あるいは、岩瀬氏のコメント通り、あるチャレンジングな(=失敗の可能性も大きい)重要なタスクを誰に任せるかを考える際、そうした仕事は信頼度の大きなメンバーに回されるわけです。そして、この信頼度というのは、あなたの地頭の良さやクリエイティビティというスキルではなく、日々の行動に対する「周囲からの見られ方」によって積み上げられていくもので、自分の信頼を「貯金」して、その残高をあげていくことが大切です。

残高が十分大きければ、最初のチャレンジングな仕事で仮に失敗して、少々残高が減ってもまたチャンスは巡ってきますし、成功すれば残高がさらに増えて、より大きな仕事がまわってくる。組織とは、そういうメカニズムで動いています。

中には「計算高く」動くことを潔くないと考える人も結構いるかと思いますが、少なくとも自分が気づかないうちに損をしない程度には、こうしたことを心をとめて日々の行動を振り返ることは決して悪くありません。


その2~組織風土との相性 (Cultural Fit)

さて、入社してしばらすると、少しは慣れてきて周囲の状況や会社の雰囲気も分かってくるでしょう。そうした中で、「毎朝、定時より30分前にきっちりした身なりで出社し、新聞を読むことが、会社的には好印象につながりそうなのは分かった。でも、ラフな格好でさっさと仕度し、出社前はスタバでギリギリまでネットで情報収集する方が絶対に効率だよな~」と、違和感を感じる人もいるでしょう。

学生の生活から会社に勤める生活へと大きく変化する中では、様々な違和感を感じることは当然です。しかし、それが環境変化によってもたらされる一時的な違和感なのか、組織と自分の相性=cultural fitからもたらされるものかをよく気をつけてみておくことは、「信頼残高」を積み上げることと同時に気をつけるべき(あるいはそれ以上に)大切なことです。

あなたには、あなた独自の価値観がある。そして、会社にもその会社固有の「風土」があります。組織風土というのは、中にいる人間でもなかなか明確に言語化できないのですが、その組織の価値観を反映してできあがっています。なので、当然、人間同士と同じように、あなたと会社の価値観が合わないこともあります。

このあたり、就職活動の中でしっかり見極められればいいですが、まあ大抵はムリですよね。入ってしばらくしてから、徐々に感じることが普通でしょう。岩瀬氏の冒頭のブログが、ある方面からは「社畜のススメ」みたいに見られたのは、こうしたcultural fitの多様性に関わらず、ある一つのスタイルが正しいこととして押し付けられたように感じられたからだと思われます。

しばらく働いていても、どうも会社で好まれる価値観と自分の価値観が合わないことはあります。自分の考え方を変えていくというのは、一つの方法です。あまり自分にこだわりすぎるよりも、違うものの見方・学び方を吸収して、視点や物事に取り組むスタイルを複数持てるようになることは、単なる知識を学ぶよりも、よっぽど人間的成長につながります。

しかし、どうしても折が合わないことも当然あります。そこを我慢して、会社では会社に合わせて生きていく・・まさに立派な「社畜」への道ですね。人間、自分が好まない事をやり続けることはできません。30分早く会社に行くとか、新聞を読み続けることは習慣化できるかもしれませんが、そうしたスタイルを好む風土・価値観が合わないのであれば、そうした組織の中で信頼残高を大きくしていくことは、多分ムリです。

そうした場合は、別の環境を探した方がいいでしょう。ただし、「会社が合わなくて1か月で辞めました」なんてのは、それこそ信頼残高が超マイナスからのスタートになるので、3年とは言わずとも、1年はしっかりと言われた通り働いて、周囲の先輩たちともよくコミュニケーションとってみて、会社の中身をしっかり見極めてから、cultural fitに問題がないか考えることをおススメします。
(転職を考えてる方にとっては、cultural fitはよりセンシティブな問題です。見た目の条件に惑わされることなく、しっかり見極めてきめましょう。)

さて、長々と書いてきましたが、以上はDrucker School留学時代に、HBSでも教鞭をとられていたSathe教授にならった内容がほぼそのままベースになっています。 というワケで、ゴゴの主観でも成功体験でもなく、むしろ価値あることを習っておきながら全く出来てない自分の姿に心痛むくらいのハナシなのですが、その分若い人にはきちんと考えてこれからの社会人生活を送ってほしいと思います。

ちなみに、「毎朝、定時より30分前にきっちりした身なりで出社し、新聞を読んでなさい」と言われて素直に実行し始めた方々、その習慣(と素直さ)は決して悪くはありませんが、その通りやったからといって本当に信頼残高が大きくなるかはその会社の風土次第なので、なんでも表面的に鵜呑みにせず、ちゃんと自分のアタマでやり方考えた方がいいですよ!
(少なくとも今さらそのままやってる新人の姿を自分が見かけたら、お前アホかwとツッコミます。)

最近、MOOCs (Massive Open Online Courses:大規模公開オンライン講座の略とのこと、今回調べて知りました。。)とか、ネット技術の発展により、色んな知識がパソコンひとつで学べるようサービスが急速に発展してきています。

そうした流れに合わせて、「ITを使った学習の方が効率的だ。もうこれからは学校に行かなくてもいい時代になる!」みたいな意見もちらほら見られます。

ゴゴ自身、まあそうかもね、なんて思うところもあったのですが、先日、たまたまとあるシンポジウムに参加したことをきっかけに、「未来の学校」についての明確なビジョンが見えました。

で、個人的な結論としては、ネット動画で学校がいらなくなるなんて時代は来ない、むしろまた、「良い大学へ行く」ことが求められる時代になると考えるに至りました。


これまでの学校というのは、基本的に知識を伝えるための装置でした。シンポジウムの分科会でプレゼンしたOlin CollegeのChachra教授は、空のバケツに水を注ぎこむイラストでその様を表現していましたが、まさにそんな感じですね。

ところでこのOlin College、今回ゴゴは初めて知ったのですが、2006年に初めての卒業生を送り出した非常に新しい工科の単科大学にも関わらず、先進的な教育プログラムで非常に高い評価を得ています。

特徴はいろいろあるのですが、エンジニア育成を目的としながら、デザインアプローチと人文科学における人間的価値の理解を重視したカリキュラムになっていること、それから、企業や社会における実際の課題解決にチームで1年に渡って取り組みながら、学生が自律的に必要な知識を習得していくという教育法を用いている点が非常にユニークであり、示唆に富むものと思います。

つまり、「バケツに水を注ぐ」ような授業で知識を溜め込むことがゴールではなく、実際の問題を解決するために、自分が知らない知識の習得を含めて、「知識を活用できるようになる」ことがゴールに置かれています。ここに、これからの大学の在り方が示されているとゴゴは思います。

まさにMOOCsなど、インターネットの発展で知識を得ることは、非常に簡単になってきています。しかし、単に知識を得れば役に立つのかと言えば、「有名大学卒だけど使えない」という声が昨今チラホラ聞かれる現状を考えれば答えは明白でしょう。

そう考えると、MOOCsというのは、教育へのアクセスという点ではイノベーティブですが、教育法という点では「バケツに水」の旧来的な教育を効率化するだけであると言えます。

とすると、教育におけるより大きな文脈でのイノベーションのテーマは、MOOCsを土台としつつ、学生が知識を現実に有効活用できるようになるための新たな教育プログラムの開発というところにあると思います。
(なので、MOOCsに意味がないと言ってるワケではなく、新たな教育法との補完関係のなかでこそ、その意義が真に発揮されると思います。)

そのために、これからの時代、大学という機関は、学生が取り組める課題テーマを提供し、そこに取り組むチームが集まるハブとなり、自律的な学習を促しながらも知識が偏り過ぎたり、うまく既存の知識にたどり着けない時には手助けをする、そういう役割・場になっていくでしょう。

そして、こうした観点での教育プログラムのデザイン力やコーディネート力の優劣によって、大学間での新たな競争が行われ、その中で「良い大学」で学ぶことが、未来においても社会的成功への一つの道標であることは変わらないだろう、という見方が冒頭の結論の理由です。


タイトルで「未来の〜」とは謳っていますが、この変化は既にいま起こっている変化です。これから大学を選ぼうとする若い人や親御さんは、旧来的な学校ブランドや「ITによる教育革命」の表面的な変化に惑わされることなく、Olinのように「知識を活かす」ことに真剣に取り組む「未来の良い大学」を目指していくことをオススメします。

そして、日本にいち早くそうしたプログラムを提供する大学が増えていくことを期待しています!

その1その2を読む)
一連の「主観シリーズ」の3回目(完結編)です。

前回記事まででは、以下について述べてきました。
・最近ホットな「デザイン」に関わる人たちと話す中で、客観的な正しさよりも、個人としてモノゴトをどう見るかという主観の強さが、新しい価値創造を行っていく中でもっと必要になってくると思われ

・主観の強さというのは、単に「私は~が好き/思う」というレベルにとどまらず、なぜそう感じる/思うのかをもう一段掘り下げて、そう感じたり思っていることの土台になっている、個人の根源的な価値観まで掘り下げられていること。

・そうした「主観の磨き上げ」ためには、「批評」という行為が有効であること

ここまでで、「主観が大切」という考え方もあるんだなとか、「主観といっても、好き/思うだけではないレベルがあるのだな」ということは受け止めてもらえるのではないかと思いますが、では、そうした強い主観が、本当にイノベーションのために欠かせないのかという点については、まだよくわからない、というところかと思います。


世の中は客観的な正しさで出来ているのか? 
皆さん、上記のとおり問われたらどう答えますか?ゴゴの好きな哲学の世界に寄り道しますが、ちょっと考えてみてください。西洋哲学は、ギリシャ哲学における「世界は何で出来ているのか?(火・水・数・・・)」という思索から始まり、この世の中の事象を成立させている決定的な原因(=真理)を探ろうとしてきました。しかし、この考え方を突き詰めていくと、人間の運命も何か(例えば、神)によってあらかじめ決定されている、という考え方に行きつきます。

しかし、心ある人間として、すべてが運命的に決められているなんていう考え方はどうも気に食わない。やはり、人間たるもの自らの力で人生を切り開いていくのだ、という考え方の方がすっきりするし、生きやすい。ただ、こうした自己中心の考え方もつきつめていくと、世の中に存在する「客観」と自らの「主観」が対立し、ひどくなると世の中のすべてが疑わしいという独善的な懐疑主義やニヒリズムに陥る危険性があります。

哲学の世界では、こうした客観的真理が存在するのか・しないのかが大きなテーマとなって長い間いろんな議論・思想が生まれてきたのですが、 フッサールという哲学者は、「間主観性」という考え方でこの対立的問題を解決しようとしました。それは慨して言えば、人間の認識の外にあらかじめ客観的真理が存在するのではなく、個々の主観同士が同じモノをみて、そこに共通の了解が産まれた時にそれが真理となる、というという考え方です。(自然科学的な法則も、人間の認識によって自然現象に秩序づけているだけ、という考え方。)

つまり、フッサール哲学(現象学)では、自らの主体的な自らの在り様(主観)を前提としながらも、懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく、他者と共有できる客観的世界が成立することを示したのです。この考え方は、非常に面白いと思いませんか?世の中は「客観的な正しさ」で出来ているのではなく、「人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてただ作り出されるもの」(竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」p.68)なのです。

そう考えれば、自分のやろうとしていることが正しいのか、本当にあっているのかを悩むことには実はまったく意味がなくなります。よく、ベンチャースピリットの一つとして、「パラノイアだけが生き残る」(アンディ・グローブ)が引き合いにだされますが、それは、「本当がどうかわからない事を、恐怖心を振り切ってトライする」というイメージではなく、自分が「それは本当である/世の中にとっての普遍的価値がある」と心の底から信じることを、他者からの共通理解を得られるまでやっていく、ということのように思われます。


イノベーション時代における「主観の強さ」の意味
もはやあまり説明する必要もない気もしますが、上記で述べたように、世の中にイノベーションを起こそうとするような試みにおいては、世の中の常識ではなくても、「それは本当である/普遍的価値がある」という確信が自らの中に存在していなくては何も始まりません。

しかも、自らの中の確信は、「間主観性」を引き合いにだせば、世の中の他者からの共通理解を得て初めて意味ある真実となるわけですから、これをきちんと他者に説明をして、納得を引き出していかなければなりません。そのためには、「私は~が好きだ/思う」レベルでは、未だ世の中の常識ではない「未来の真実」を、他人に理解させることもできないはずです。

なぜそれが好きか、そう思うかを自らの価値観まで掘り下げて理解していないと、他人に説明することも難しいでしょうし、どちらにしても理解されにくい新しい価値観を、他人に拒否されつづけてもあきらめることなく試し続けるためには、自分の中での明快なロジックとしてを伴っての「それが大切だ」という、「強い主観」が必要になります。

しかしながら、前回述べたように、自らの主観をきちんと掘り下げて語れる日本人は、あくまでもゴゴの個人的感覚ではあるものの、非常に少ないと思います。でも、だからこそ、これからの時代を切り開いて行こうとする若者にとっては、「強い主観」を磨くことの価値が非常に高まってくるとゴゴは思うわけです。

ロジカルシンキング的なスキルはもちろん大切ですが、それでもって客観的な正しさのみを検証することに埋没することなく、自分は世界をどう捉えているのかといった物の見方や、自分が大切に思うことの根源となる価値観を掘り下げていくような「主観の磨き上げ」に投資していくことは、イノベーティブなチャレンジに挑戦しようとする人にとって、絶対これからの時代で効いてきますよ!

 
P.S.
これを書いてる本日は2013年の大晦日。
(買いだしやらの年末家庭進行のさながら、早朝起きだして書いてます。。我ながら何してんだか。) 

強い主観にあふれてイノベーティブな可能性に満ちた日本の未来に思いをはせながら・・・皆様よいお年を!



※今回の参考図書



前回記事の続きです。前回、新しい価値を生み出していくことが求められる時代においては、客観性よりも主観の方が重要になる、というハナシをしていました。では、主観とはそもそもいったい何なのか、どうすれば「主観を磨く」ことができるのか、ということを今回の記事では掘り下げます。

主観とは何なのか
さてまず、主観、主観的であるというのは、どういうことでしょうか?普通に考えて、主観というのは、「私は~と思う、感じる」という個人的な認知や感覚です。他方で、客観というのは、世の中の真実・真理や常識に照らし合わせて、誰からみても多くは正解・妥当とされるであろうことをより分ける判断です。では、主観的な「私は~と思う、感じる」という感覚は、いったいどこからやってくるのでしょうか?

例えば、ゴゴは一時、ジャズを好んで聞いていました。「私はジャズが好きです」ということですね。じゃあ、なぜジャズが好きなのか?「好きだと感じたんだから好きなんだよ」、こういうオレ様ルール的な態度(※)から一歩進んで考えてみます。そうすると、「アドリブ効かせたり、少しテンポやコードをずらしたりといった、ルールにとらわれない自由なスタイルや偶発性、そこから生まれる感情的なエネルギーに魅力を感じる」と、一歩掘り下げた説明もできます。つまり、ゴゴの主観は、「自由でルールが決まっていないこと、感情的なこと」に魅力を感じており、その一つの表れとして、ジャズを好んでいる、と言えます。

(※最近、「ヤンキー消費」がちょっとしたホットコンセプトになっているようですが、ヤンキー文化にありがちな、こうしたオレ様ルール的な考え方も拡大していくのだとすると、さらに日本の先行きが心配になってきます。。)

しかし、同じく「ジャズが好きです」という別の人に、同じようになぜかを掘り下げて聞いた場合、例えば、「ジャズの持つ多彩でメカニカルなコード体系や、理知的な雰囲気が快い」と答える人もいるかもしれません。この人は、ゴゴとは違うこの人なりの主観でジャズの魅力を捉えています。

つまり、主観というのは、その人固有の価値観によって、自分の外側に存在する対象の良い-わるいや、美しい-美しくないといった価値判断をする姿勢であり、「主体的なモノゴトの捉え方そのもの」といえます。


どのように「主観を磨く」のか-批評するということ
前段のように見ると、主観的といっても、「僕はジャズがクールだと思う」「私はクラシックが好きです」「俺はヒップホップが好きなんだよ」という、「いわゆる主観的」な態度から、一歩掘り下げた在り様があることが分かったかと思います。では、客観的な論拠なく、なんとなく自らがこう思う、こう感じるということは誰にでもあると思いますが、それがどこからきているのか、どんな価値観やコンセプトに基づいているのかを説明できるでしょうか?

非常に個人的な感覚ですが、自らの価値観を掘り下げて主観を語れる日本人は、かなり少ないように思います。モノゴトの考え方や感じ方を掘り下げていく行為というのはまさに哲学的な行為ですが、こうした「正解のない」ことを突き詰めて考える訓練は、日本の通常教育の中ではおこなわれていません。もちろん会社に入ってもそんなことは求められません。すでに世の中に存在する知識、データ、枠組みを組み合わせて、正解を出すことのみを求めてきた結果ですね。(それはそれで、時代的な合理性があったと思いますが。)

しかし、こうした価値観のベースが確立されていない「主観」というのは、非常に脆いものです。ただただ「僕はジャズがクールだと思う」「俺はヒップホップが好きなんだよ」なんて言い争うのはさすがに非建設的ですし、それ以上語るコトバをもたなければ、主観的な「好み」は、個人的な趣味の範疇として、内心にとどめ置くことが妥当になってしまいます。さらにひどい場合、個人の中に主体的な価値軸が育たないために、他人の評価や世の中の流行にのることでしか自らの好みをカタチ作れないとなれば、画一的で表面的な社会集団やマーケットしか生まれない=イノベーションが起きにくい、という状況につながってしまうとゴゴは考えます。

これが、前回記事の中でロンドンのデザインファームの知人から言われた、「日本人は主観的な部分が弱い」ということにつながっているのだと思います。ではどうすれば主観を磨けるかと言えば、すでに上記に見たように、自分が思ったり感じたりすることの核心的な根っこを、きちんとコトバでとらえる訓練をするということです。これは、さまざまな事象に対して、「批評」を行うということで実践できます。

批評ということは、なんでもかんでも批判することと思われがちですが、それは違います。ゴゴが愛読する「哲学は何の役に立つのか」(西研、佐藤幹夫)から、以下の一節を紹介します。

「マンガでも映画でもいいのですが、なぜかあの主人公はカッコいいよ、こっちはダサいよ、と感じる。じゃあその『カッコいい』をどんな言葉にできるか。言葉でいうためには、自分の感触に向き合ってそれを見つめなおす必要がある。そして、それを他人に伝えて対話していく。そのことによって、自分の価値観を自覚的に検証して、鍛えていくことができる。」(同書P.86)

このゴゴログも、こうして考えると自分の主観を鍛えるためにやっているようなもんです。


こうした主観の強さが、どのようにイノベーションを生み出すことにつながっていくのかという点についてまで書きたかったのですが、またまた長くなってしまうので、「次回に続く」ということで。





「客観的に考えろ!」・・・みなさん、一度はこういうことを言われたり、本などで学んだりしたことないですか?多分、普通に人生を送っていると、学生生活や仕事の中で、主観よりも客観性を問われることが圧倒が多いんじゃないかと思います。

極論すれば、客観的にモノゴトを見られる能力には価値があり、「アンタが自分で考えている主観なんてどうでもいい」、というのが、一般的な価値観ではないでしょうか。ところが、先週とある2つの出会いの中で、これからの時代、むしろ客観性よりも主観性が大切になってくるであろうという気付きを得る機会がありました。


一つは、東大ischoolで行われたワークショップに参加した時の話です。ischoolというのは、イノベーションを促す人材の育成を目指して、デザイン思考的なアプローチで教育に取り組んでいるプログラムなのですが、このワークショップの中で、「ワトソン君」の話題が紹介されていました。

AIのワトソン君、アメリカのクイズ番組で優勝したハナシはこちら

このワトソン君、クイズ番組で普通に口語で話される質問を理解し、人間と競って答えていくのですが、ぶっちぎりで優勝したそうです。このハナシ、ゴゴはまったく知らなかったのですが、AIはここまで来ているのですね。
(ちょうど前回記事でAIの話を扱ったところでもあったので、不思議にタイミングがつながるものだと。。。)

iSchool横田ディレクターの予想としては、「デザインする」という行為もある程度の思考フレーム・ステップが見えてきているので、2050年頃には、ある程度創造的な活動も含め、コンピューターが人間よりも優れて行える時代がくるだろう、逆に人間に価値が残るのは、何を作っていきたいかという「主体的な意思」ではないか、という話しでした。

そしてもう一つの出会いは、ロンドンのデザインファームをベースに活動する知人が日本に出張してきたタイミングで会って話していた時に出てきた、「日本人は主観的なところが弱いように思う」、というハナシです。

これがまさに今回のテーマを書く大きなきっかけになっているのですが、彼曰く、新しい価値を生み出していくプロセスにおいては、組織や個人が持つ何らかの根本的かつ固有の価値観やコンセプトを前面に出してエッジを効かせなければならない、しかし、こうした「主観的な」パワーがヨーロッパに比べて日本は弱く感じる、ということでした。

ヨーロッパはどうなのかと聞いてみると、個人が自らの好みを大切にしていて、知名度や他者の評価などにあまりこだわらず自分なりに楽しんでいること、またその分個々人の好みが分散しているために、多様なもの・新しいものが受け入れられる土壌やマーケットの厚みがある、とのこと。

一方で日本はどうかと考えると、まさに冒頭で上げたように、「客観的に見てどうなんだ?」的な、すでに確立されたものの見方や価値観に照らして、自分の考え方があっている、間違っている、といったような思考に知らず知らず染まってしまっているように思います。

客観性というのは、それはそれで大切なことは間違いないですが、それでは主観はどうするんだ?というところには、今まで全く光があたっていなかったと思います。

正しいことを間違えないように遂行すること、そういう時代であれば、確かに客観性一本槍でも良かったのでしょう。しかし、新しい価値を生み出していく中で、「主観的な」価値観・コンセプトが求められ、一方で誰が見ても正しい「客観的なこと」は、どんどんAIがとって変わっていく時代がすぐそこにやってきているとしたら・・・?どう考えても、主観的なモノの考え方がもっともっと求められるようになってくるはずです。

じゃあ、「俺はあれが好き、これは好みじゃない!」なんて、「ユニークな個性(笑)」をぶちまけ続けることが、主観を磨くことにつながるのか?いえいえ、ゴゴログはそんな浅くないっすよ、と行きたいのですが、ちょっと長くなってしまうので、そこは次回に続く、ということで。

*2015.12.24 一部修正・加筆

「コンピューターが人間の脳を超える日が近い将来やってくる」なんて議論を最近耳にすることがあります。近年続くコンピューターテクノロジーの発達や、統計学をベースにしたビッグデータ解析による予測モデルの発展などを背景として、AI(人口知能)が、近い将来人類の思考能力を超える日がくる、というハナシです。

「2018年頃にはコンピュータ・チップの容量が人間の脳細胞の容量を超える」(孫正義)

シンギュラリティ -約30年後の「何が起こるかわからない1日

ウィキペディア:技術的特異点(Singularity, シンギュラリティー)


さて、本当にそんな日はやってくるのか?

知人がFBでシェアしていたブログ記事(「技術的特異点と仏教的生命観の接点」)に触発されてコメントしたことをベースに、今回は「コンピューターが人間の脳を超える日」なんてものはやってこないことを、哲学的に論証してみたく思います。



上記の記事の中で、「仏教的生命観には、人間には個としての自分と全体としての自分という2つの側面がある」ということが触れられており、これは面白いなと思いました。いきなり結論めいた話になりますが、「コンピューターが人間の脳を超える日なんて来ない」とタイトルで言っているのは、まさに「全」と「個」の関係で、「全なくして個はない」という考えに基づいています。

どういうことかと言うと、引用記事の中での全と個の捉え方とは少し違うかもしれませんが、個人の思考というのは、それ自体が独立して存在しているのではなく、自分の周囲の世界との関係性で生まれてきているとゴゴは考えています。つまり、全と個は本当は切り離せないものだということです。(※)


ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし、何も見えず、何も聞こえず、何の情報も入ってこない、つまり自分の外側に何もない世界に入ったとします。さて、ずっとそこで1年間住み続けたとして、あなたはそこでどんな考えを生みだせるでしょうか?おそらく、過去の記憶を思い出す以外、新しいことは何一つ考えられないと思います。(最初は記憶をベースに多少は新しい何かを考えられるかもしれませんけど。)それ以上に、あなたはもはや「個」というものを失っていると思います。

こう考えると、私たちが「個」と言っているもの、それは主体的な認知や思考と言い換えられると思いますが、それは自分の外的な世界を認知し、その外的な世界との関係性の中で「個」というものを考えているにすぎないと言えます。つまり、「個」はそれのみで独立しては存在しないものである、ということです。

しかし、シンギュラリティというのは、個を独立したものと捉えて、完全無欠な知性をプログラムで作り出すという、ある意味西洋的な思想を前提にした議論だと思います。(西洋思想でも、ネットテクノロジーの世界以外では、こんなピュアな個のあり方は修正されてきていると思いますが)


一方で生身の人間の思考能力の面白い点は、過去の経験や外部との関係性から、そして生きていることに起因するさまざまな苦しみから、必ず何かしら認識に歪みを持っているところだと思います。場合によってはそれが誤認や妄想となって判断の質を低下させますが、一方でそうした認識の歪みが、人とは異なる新しい物の見方や芸術的な発想につながっており、そこに人間の創造性の源があるのだとゴゴは考えています。

そう考えると、個々に異なる認識の歪みも含めた全人類の思考能力を超越した知性というのは、人間が持ちうる全ての認識パターンを把握した上で、そのどれよりも優れた認識レンズを搭載する、あるいは1人の人間では持ち得ないほどの多様な認識レンズを使い分けるものではならないはずです。

そしてそうした個の知性は外部との関係性から生まれてくるわけですから、人間の思考能力をはるかに越えたAIを作り出すためには、究極的に言えば開発者は先ずこの世界のあり様すべてを完全に理解し、その世界との関係性で生まれる得る人間の思考のパターンもすべて解明した上で、それよりも優れた思考・認識構造をコード化してAIに搭載する、あるいはAIが自ら獲得する学習アルゴリズムを開発することが必要になります。これができれば、あとは莫大な計算力で完全に人間の能力を完全に超越できます。


しかし、世界の全てと、その中で生まれる思考のパターンを理解し尽くすというのは、それこそ神様でなくては不可能です。なので、AIが人類を超えることはない、という結論に至ります。(以上、証明終わり。)

・・・とまあ乱暴なロジックでキチンとした証明にはなってないわけですが(ここまで書いといてそれかよ!というツッコミも聞こえてきそうですがw)、人間の知性というのは一体何なのか?という哲学的命題が完全に解明されない限り、シンギュラリティなんざチャンチャラおかしいわ、というのが個人的な見方です。そして多分人間が人間を分かりつくす日なんてやってこないでしょう。これは単に希望的観測にしかすぎませんけど。

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最近、Techな世界では、昔の「人間が自然を管理する」的な思考を繰り返しているような気がします。それはある意味やんちゃで「何がでてくるか?」と面白いのですが、一方でこうした「全と個」を考えるといったような、人文的思想が欠落しているように感じます。そうした偏った物の考え方では、どこかで破綻するはずです。

ちなみに、シンギュラリティの議論の中で懸念されているように、AIが偏った思考パターンと能力でもって世界に混乱をもたらすことはあるかもしれませんが、そうなればまさに、AIが人間の思考よりも劣っていることの証明でもあるかと思います。

かといってAI開発に否定的なワケではなくて、むしろAI開発の過程で人間の知性についての理解が進めば、人工知能のみならず人類そのものにとっても有益な研究成果になるとむしろ期待しているんですけどね。。

いずれにしろ、AIが人類全体の思考能力を完全に超えるなんて日はたぶん永遠にやってこないでしょう、というハナシでした。


「セレンディピティ」という言葉を聞いたことってありますか?「偶然をうまく機会ととらえることによる成功」あるいは、「幸運をつかみとる能力」(by Wikipedia)みたいなイメージで、まあそういうことってあるよな~と感じつつも、個人的にはいまいち掴みきれない概念でした。

今日たまたま、日経ビジネス・オンラインの記事、「セレンディピティとイノベーション」を読み、セレンディピティの源泉は、哲学的思考力なのだ、ということがアタマの中でつながり、やっとこの概念の持つ意味が腹に落ちて分かったので、今回は、偶然的な発見・成功と哲学的思考力がどうつながっているのかについて、できたてほやほやの個人的理解をお話しします。

「セレンディピティとイノベーション」(日経ビジネス・オンライン記事。閲覧には無料会員登録が必要です。)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20131001/254080/ 


ここで紹介されている話では、道路の白線用に使われる、とある高価な物質の代替品の開発検討をする中で、化学物質の専門家ではない参加メンバー(女性バレリーナ)が雪が降ってくるのを見たことをきっかけに、技術開発の方向がまったく当初の想定外の方向で進んでいく、というエピソードが紹介されています。 ちょっと出来すぎな話のようにも感じられますが、「雪は結晶が光を乱反射するから白く見える」という小話をきっかけに、開発検討のスコープが広がっていったことが示されています。

このエピソードを読んでゴゴが理解したことは、セレンディピティの発現は、単に偶然をうまくとらえるといった神秘的なことではなく、自らが探究している課題と、一見そこにつながらない物事(偶然の出来事)との間の、本質部分における共通性を感じ取れるかどうかにかかっているのだ、ということです。逆に言えば、自ら抱える課題の本質の姿を捉える力がなければ、セレンディピティは発現しない、と言えます。

こうしたモノゴトの根源的な本質を掘り下げる能力というのは、「哲学的思考力」に密接につながっていると思います。これまでも何度かゴゴログ内で触れていますが、一般に「実用的でない」と思われている哲学とその思考法とは、哲学とは昔の偉い人が言った小難しい概念を覚えて理解することではなく、自らが対峙している事象や課題の表層をはぎ取った「本質の姿」は何か?を掘り下げる学問・行為です。そして今回、こうした思考力こそ、偶然の出会いを含めた様々なモノゴトを、イノベーションやクリエイティブな思考へとつなげる重要なカギだと、一つ理解が進んだように思います。 

あらためてまとめを書くと、「セレンディピティを得るには、哲学的思考力が欠かせない」、ということです。


ちなみに上記の記事の中で、「『理論は経験から帰納的に出てくる』というのは間違い」というフレーズが出てくるのですが、個人的な「アンチ・ロジック一辺倒」主義と重なって、非常に脳ミソに刺さりました。新規ビジネスの可能性を、データとロジックの積み上げのみで実証を求められて苦しんでいる、感性派の方々に捧げたく思います。(笑)


(参考)哲学・哲学的思考に触れた過去記事。
「本質を創造的に考えるための脳みその使い方」
「大学に行って何の役に立つのか(その3)」

先日、酔っ払いついでに書いた記事が思いのほか食いつきがよかったので、調子に乗って、試しにちょっとターゲット層を若めにシフトして書いてみます(笑)。


社会人になって、若いみなさんは論理的思考、ロジカルシンキングみたいなものの獲得に励んでいる人も多いかと思います。これはこれで良いのですが、鋭いロジックを振り回せたら万能、なんて思ってないですよね?

今日も新人の子と話してて思ったのですが、仕事の中では、理屈でスパッと割り切れなくて悩む話も多いと思います。例えば、人事や総務といったスタッフ業務。こういった仕事は、ロジックで分析して終わり、なんて簡単な仕事じゃありませんが、逆にそれゆえ何をすれば良いのか、よく分からないことも思います。

そこであえていいますが、ロジックで正解出して終わりなんて仕事は、全然、人的価値のない仕事ですよ。どんなに数式が複雑になろうと、1足す1は2、みたいな仕事は、最終的には人的価値のない仕事です。

ちょっと脱線しますが、少し前、日本はものづくりの国だ、職人は1ミクロンの違いが分かる、神様みたいだという話がありがたがられたことがありましたが、1ミクロンの違いを工作機械で完全制御出来るようになったら、その技術はまったくもって陳腐化しました。

何が言いたいかと言うと、論理的に整理できる、定量化出来るといったスキルは使いやすいしそれなりに必要だけれども、ビジネス雑誌で喧伝されるほど、真の人材スキルとしては実はプレシャスではない、ということです。

じゃあ、何を磨けばいいのかですが、いかなる仕事にも共通して大切な人材スキルは、「想像力」です。(これは、自分自身が役所から企業に転職して痛感したことでもあります。)

「こうするべき」とロジカルに分析して言い放つ事は、それほど難しいことではないです。しかし、それを納得してもらって、実際にその通り動いてもらう事は、非常に難しいことです。じゃあ、どうしたらいいのか?ここで想像力が活きてきます。

想像力というのは、何かのアクションをとった時に、相手がどう感じるのか、物事がどう動いていくかといった、結果の「全体」をイメージする能力です。その全体像の中では、ロジカルな整理では拾い尽くせない、さまざまな考え方や受け止め方が存在しており、そうした豊かなイメージのなかで、どのような打ち手がどのような結果に結びつくのか、有機的に想像して検討をすすめるということこそ、人間がもっとも価値を発揮できる仕事だとゴゴは考えます。

そしてこの「想像する」ということは、営業だろうが総務だろうが、どんな仕事にも必要とされるスキルであり、現状から一歩進んだ「t+1」の状況をどこまでリアルに想像できるかが、あらゆる仕事に共通して大切なスキルと言えます。

なので、配属された仕事や表面的なスキルに惑わされることなく、「こうしたら次になにが起きるか?」を徹底的に考える訓練を自ら課せば、ちゃんと成長すると思いますよ。


蛇足になりますが、論語に「以直報怨、以徳報徳」という言葉があります。もとの意味からは少し飛躍するかもしれせんが、ロジック(直)というのは、スジを外した言説(怨)には有効ですが、価値観(徳)の違いには、ロジックではなく、自らの価値感で対峙するほかないとの意味とも捉えられます。

とすると、相手との意見の違いをロジックによってではなく、どこに価値観の違いがあるのかと想像力を働かせて対処するのは、孔子も保証する(?)、正しいアプローチとも言えますね。

今回は、本質的かつクリエイティブにモノゴトを考えるために、こんな脳みその使い方がありまっせ、という話です。

前回、未来を変えるデザイン展の話しで、あえて考えを整理しきらずに、なるべく脳みその中のそのまま感を残そうとしたのは、この記事につなげる企みがあったためです。

以下、「哲学的思考」「脳みそのとの対話」「アナロジカルシンキング」と、ゴゴが勝手に命名した、ちょっと変わった?脳みその使い方を紹介します。多分、こういうことやってる人はそこそこいると思うのですが、世の中ロジカルシンキングばかりで、あまりこういうアプローチをまとめたものを見たことがないので、何かの参考になればと思います。


「哲学的思考」
前回の思考再現の出だしは、
「教育とデザインか。。。そもそもデザインって何やろ?『デザイン』って何をどうすること?」」
というところから始まります。この、「そもそもxxって、何?」と考えることが、ゴゴが「哲学的思考」と呼んでいるもので、モノゴトの本質を考える上で、絶対に欠かせない入り口です。

ゴゴログでも何度か書いてますが、哲学というのは、小難しい話しをするためではなく、ものごとの本質を捉えようとするものの考え方です。そのためには、物事の表面にある具体論を取り除いて、奥底にどんな「芯」や価値観、あるいはロジックの出発点になっているものがあるかを考えようとしないことには始まりません。

例えば、「教育課題」と漠然とした問題意識のなかで、何が本質たる課題になるのか、それは何故なのかを考えずに表面的な問題に飛びつくと、グローバルだ、英語だといった話に終わってしまいます。


「脳みそとの対話」
前回の思考の再現内容で、あえて説明をまとめ切らずにごちゃごちゃした思考過程をを残したのは、特にこの脳みそとの対話・おしゃべりを表現したかったからです。

みていただければ分かるかと思いますが、イベントでスピーカーが話していた内容がほとんど含まれておらずにひたすら自分のアタマの中での問答が続いていて、唯一、フロアの他の参加者の発言にのみ反応している程度です。

実際には、スピーカーの話しも聞いてはいるのですが、思考する部分では全く別のことを考えています。ここには、メタ認知と呼ばれる、何かを知覚することと、自分がそれを知覚している状態を知覚するという、一種の自己客観能力が土台となっていますが、哲学的思考に入った後は、無意識に脳みそが語りかけてくることに注意を払って、本質に潜り込んでいくことが大切です。

こういう時に、雑念を払って話に集中しようとか、しっかりメモとろうなんてマジメにやろうとしてたら、他人の意見を記憶するだけに終わってことにもなりかねません。人の話というのは、所詮は自らの問題意識を掘り下げるための道具やキッカケにしか過ぎません。そこから自分はどう考えるか?その奥底に、誰もが気づかなかった答えがあるかもしれません。


「アナロジカル・シンキング」
アナロジカル・シンキングとは、日本語でいえば「類推思考」、つまり、ある事象が別の事象がにも当てはまるだろうと類推して、モノゴトの本質や構造をつかむキッカケにする思考法です。あるいは「比喩」を使った思考の飛躍法とも言えます。

思考再現のなかでもう一つ、社会変化の波というテーマから、
「『波』を乗りこなすっていえば、サーフィンやな。」
と、波の比喩から話が飛躍してます。そもそも、比喩というのは本質的に似た部分があるから比喩として成り立つので、比喩でつながる「別の話」には、本質に通じるカギがある可能性が高いのです。

このつながりには単に感覚的な部分や思い込みなど、本当に飛躍するだけのリスクもありますが、なかなか見えにくい本質を探る上では、すでに存在する様々な事象の共通点から類推してみるというのは、大きな手がかりになる可能性があるこで、使わない手はありません。

よく、できる経営者は例え話がうまいと聞くことがありますが、常に実体のわかりにくい経営課題に当たるなかで、うまく他の事象から問題の本質をつかんだり、解決のキッカケを得る能力が高いことが経営能力にも活きていると考えれば当然かもしれません。


こういう思考をぐるぐる回す中で、本質的な問題意識や仮説、いわゆるインサイトがうまれてくるのだと、ゴゴは考えています。ロジカルシンキングが本当に価値を発揮するのはこの後で、真に本質的な問題意識や仮説を人に説明し、理解を得るためには、ごちゃっとした本質理解を、論理的に整理する必要があります。

しかし、逆に言えば、こうした本質思考を経ずに、ロジックだけで物事を切ったところで、何も創造的なものはうまれてきません。あまりにロジカルシンキング一辺倒な状態をゴゴが嫌うのは、このためです。

ゴゴの考え方以外にも、面白い脳みその使い方が広まって、もっともっと本質的でクリエイティブな議論ができるようになればいいなと思ってます。他に面白い脳みその使い方をしてる人がいれば、ぜひシェアしてください。

昨晩、六本木のミッドタウンで行われている「未来を変えるデザイン展」の中の、教育をテーマとしたイベントに参加してきました。

教育×デザインということで、ゴゴ的には「どハマり」なテーマで、色んな話しが聞けて面白かったのですが、今回のゴゴログは、その場で聞いた話しよりも、その場をきっかけにして考えたことが話しのネタです。教育に関するいくつかの企業さんの話しを聞きながら、ふと、そもそも未来に向けた教育の「課題」とは何なのか、教育を「デザインする」というのはどういうことなのか?と考え始めたのですが、これがなかなか深い。。。

教育の課題と言えば、これからの時代で教えるべき内容から、IT活用を含めた効率的な勉強法など、色んな角度からの打ち出し方があります。しかも、「デザイン」と言うと、何となく分かるようで、実は具体的に何をするのかよく分からない。一体、何を考えることが本質課題なのかが良く分からなくなりました。

で、このあとちょっとした趣向で本編(?)が長くなるので、先にゴゴなりにまとめた結論を言ってしまうと、
・未来の教育に向けた最大の課題は、「学ぶことの価値・楽しみ」は何か?を明らかにすること
・それをデザインするとは、価値・楽しみを理屈で伝えるのではなく、感じさせる方法を編み出すこと
となりました。


さてさて、以下ではなぜこうした結論に至ったか、ゴゴのアタマの構造に興味を持っているファンもいらっしゃるだろうと勝手に妄想しつつ、今回のゴゴログではあえて理屈をキレイに整理しきらずに、イベントの話し聞き半分に「脳みそとおしゃべり」していたことを、なるべく「思考そのまま感」を残しながら再現してみたく思います。(アタマの中は関西弁なので、読み苦しい方にはスミマセンが、あしからず。。。)

***

教育とデザインか。。。そもそもデザインって何やろ?「デザイン」って何をどうすること?「教育をデザインする」って、よく考えるとまったくイメージ浮かばんな。「学ぶ楽しみをデザインする」なら、何となくイメージできそう。「教師と生徒の関係性」もデザインできそう。「デザイン」の「対象」になることって、いったい何なんやろ?

そもそも、「教育」ってコトバには、何も価値を含んでないなあ。。。「教え育てること」、それだけやな。「教育」の「課題」っていっても、「教育」という概念そのものに価値的な実態がないなら、課題も考えようがないなあ。「教育の課題」って、ホントはなんのことを言ってんだろ?例えば、教育の目的を「社会で活躍し、生き抜く力を身に付けること」って置くとするなら、確かに課題感はあるな。現代~未来の社会は、変化が早くなってるみたいやから、学ぶべきこともどんどん変わっていくしな。。。

とすると、何を教えるべきか?って「教育の内容」についての課題が一つ出てくるな。しかし、どんどん多様化して変化する世の中で、何を教えるべきかって、なかなか一義的には決められんわな。自分で学びとるものを自律的につかんで行かんと、どうしようもない。そしたら、変化の波に対応する「自律的な学びのスタンス」をどう作るかって方が、「教育課題」としては本質っぽいな。

・・・「波」を乗りこなすっていえば、サーフィンやな。サーフィンって、なんでみんな一生懸命練習するんやろ?最初は立つどころか、波つかまえることもできんし、流されては沖に出るの繰り返しでパドルで腕つりそうになるし、波の状態悪かったらせっかく海いっても練習にもならんし、ある意味、「社会で活躍するための勉強」と同じような苦行にも思えるけど。。。波乗りできたら楽しそう、って感じがあるからか。そしたら、「学んだら、楽しいことができる」って感覚を持てたら自律的に勉強するのかも。でも、どうやったらそれを感じられるんやろ?

何かのプロジェクトなどを通じて、達成/実現したい、でも足りないものがある、という体験があれば、学びへの自律的スタンスがうまれるかもな。。。そういや、昔「Beep」(※)で、ゲームの中で画像を回転させるには三角関数の式を使ってプログラムを組まないといけない、みたいな話があったはずだけど、そういう「学べばできること」が具体的にあれば、喜んで勉強するかも。。。

(このあたりで、フロアへの意見投げかけがあり、ゴゴから「学びの楽しさをどう感じさせるか」という課題感をかいつまんで説明。すると、ファシリテーターが繋いで、別の参加者から、「既成概念を崩すというか、子ども達にそれまで考えたことがなかっただろう違う切り口を見せると、ハッとして、その瞬間に『やる気スイッチ』が入るのを感じることがある」との意見あり。この人もなかなか深い。)

なるほど、何かができるようになりたい、だけではなく、新しい世界をのぞきたい、というのも学びへのスタンスにつながるな。。。ただ、その対象が目先のことだけでなく、どこまで広い世界・長い時間軸で考えられるかで、スタンスの質は変わるな。ゲームがうまくなりたいってのもある意味、似たスタンスなんだろうけど、狭い世界の短い時間軸の話やからちょっと足りんな。どうやって、広い世界・長い時間軸という、大きな時空の中で、学ぶ楽しみを「感じ」させられるか、その手法を編み出すのが「デザイン」といえるな。

***

とまあ、これでもかなり記事にするために言語化してしまっているわけですが、もっとコトバ以前の混沌とした思考イメージでぐるぐる自分の脳みそと話した結果をまとめると、上記の結論になるのでした。

で、繰り返しになりますが、「学ぶ楽しみとは何か、その体験をどうデザインするか」が、今後考えていきたい大きなテーマとして、一つクリアになりました。一緒に考えてくれる人、大歓迎です。


Beepとは、かつて存在したマニアックなPC中心のゲーム雑誌。ゴゴは小中学生くらいにこの雑誌を愛読しており、一時期はゲームプログラマーになりたいと思っていたのだが。。。そのまま進んでいれば、今頃天才プログラマーとして大成功してたはず?

ちなみにこの時の記事は、「アサルト」っていうアーケード戦車ゲームで、ぐるぐる画像を回転させる機能が実装されたのがいかにスゴイのか、って話だったと、なぜか強烈に記憶してます。中学生当時は当然、三角関数なんて概念さえわかるはずもないのですが、「θ」がどうやらとか、そんな話が何十年たっても焼き付いているというのも不思議なもんです。

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