ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

カテゴリ: 教育・少子化

今日も続けて少子化にからんでの話しです。(昨日の真面目分析系と違ってぶっちゃけ系なので今日は文体も毒入りモードでお届けします。)

昨日の出生率上昇の記事は実は前フリみたいなもんで、今回の話の方が個人的には最近ずっと考えていることなんですが、まさにタイトル通り、「少子化対策」を名目に税金やら投入しようとか言うの、もうやめたらどう?ということです。

少子化というと、まさに昨日の記事などのように「xx年後には日本の人口は~万人まで激減!」みたいな危機感がうたわれ、だから少子化対策が重要、そんで子供をもっと産んでもらいたいなら保育所増やせ、こども手当だか保険だか経済支援も手厚くしろ、まあ大体こんな話になるわけです。 

でもね、今後数十年くらいの近い未来とそこに生きる自分の子ども世代のことを考えると、「子どもを増やそう!」というのは当面あきらめて、もっと別なこと、例えば教育関連に政策リソースをフォーカスするべきちゃいまっか?と強く思うわけです。

そもそも「少子化対策」なんてムダだし。。(ボソッ)

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先日、最新の将来推計人口が公表され、ニュースになっていました。

2053年、1億人割れ=65年に高齢者4割弱―出生率は小幅改善・厚労省推計

 
日本の人口がいつ1億人を割るかはというのは個人的にはどうでもよくて、高齢者比率のさらなる増加による社会負担の高まりに社会あるいは個人としてどう向き合うのかということが 最近の関心なのですが、今回の公表で気になったのは、「出生率が小幅改善」という点です。

どれどれ?と改めて出生率の推移を確認すると、2005年の1.26を底に、足元の出生率は2013年で1.43とゆるゆる上昇してたんですね。データは見てははずなんですけど、長期で見た時の水準の低さに気を取られてこのトレンド転換についてはあまり考えてませんでした。

しかしながら、あらためて「なぜ出生率が上昇しているのか?」という要因を考えると、何が変化しているのがよくわかりません。

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hoikujo_taikijidou

先日、こんなマンガが少し話題になってなってました。

【待機児童問題】保育園落ちた!ママさん達の声を聞いてみた

http://gikai.me/page_1908


これに対し、「認可落ちてから認可外当たるなんて事前調査が足りない。認可外なら先着順だから先に抑えておくべき。」とか、「認可保育所はそもそも福祉施設なのだから低所得者向けであり、それなりの収入ある人間がそこに頼ろうとするのは間違い」などとの批判的な反応も色々あったようで。



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ごぶさたのゴゴログです。

「日本死ね」ブログの影響で保育園問題が沸いとるようですね。まあウチも子どもが小さいしカミさんも働いてるので事情も気持ちもよく分かりますが、デモなどに対する情緒的な賛同の風潮を見ると、認識の甘さ浅さをつい感じてしまいます。

保育園が見つからないことや保育士の給与水準そのものについては確かに問題だと思いますし、実際ゴゴログ当初の記事(http://gogotomo.ldblog.jp/archives/24992853.html)で、マーケットメカニズムに任せて需要を満たす制度的解決策をすでに書いてますんで、本当にやっていただければとずっと思っとります。

ただ、やっとこさ一連の騒動で保育コストの話しも出てきてますが、保育士にそれなりの給料出す前提で素に保育料払ったら平均で10万円くらいは上がるんじゃないですかね。
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書くときには連発するというこれまた毎度のパターンで、またまたゴゴログ更新でございます。本日は、少子化対策として非婚化にどう対応するか?というハナシです。今回はかなり気合い入った記事!


近頃は「一億総活躍」ということで少子化対策もあらためてホットイシューになっているところ、そのネーミングや「希望出生率1.8」という考え方への違和感も多々聞かれるところですが、検討資料等を見るに、個人的には少子化の課題要因や解決への道筋(方向性)については結構スジがいいと思ってます。
 ・一億層活躍国民会議(第1回)事務局提出資料 

というか、上記資料における少子化背景の認識材料や課題整理は、昨年のゴゴログ記事「」で書いていたのと非常に共通する部分が多く、特に非婚化が少子化を引きおこしている大きな要因であることが示された点については、まだまだ「育児費用が高いから子供が生まれない、経済的サポートを!」みたいな情緒的なだけのバラマキ施策アイディアもよく語られる中、「なかなかやるやん?」という気持ちで眺めております。(ワイ何様ww)

そうなんですよ。問題は結婚する人が減ったからであって、「第一子から手厚い経済支援を」なんて大衆ウケしそうな政策を推し進めてたところで、カネが出るばかりで大して効果は出ませんよと。この手のアイディアを声高に叫ぶ人を見ると、「こいつアホやな」といつもいつもいつも思っております。スンマセン。

でもホント経済支援をするなら、ひとり親家庭で本当に育児に困っている家庭に集中投下するほうが少子化対策の効果はさておき、カネの使い方としては100万倍マシですわ。ショボい金額のこども手当とかホンマいらんので、ぜひとも困窮家庭の育児支援にカネを使っていただきたい。

・・・おっと、脱線してしもた。本日のテーマは、 だからといって「婚活支援」じゃねーだろ!というハナシでした。
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最近、会社をやめてプラプラする日々ですが、ストレスフリーなためかなかなかゴゴログを書くほどの引っかかりがある出来事がありません。そんななか、久々にいいネタに巡りあいました。

「データえっせい: 少子化の要因の2局面」

 https://newspicks.com/news/668652/

Newspickで一時総合トップにランキングしていたこの記事、少子化の要因を有配偶者の出生率変化と未婚化の2つに分けて分析しており、以前のゴゴログ記事(「少子化対策・「第三子以降に特化」は裏をかえせば正しい。」)と同じような視点で、結論として、未婚化(非婚化)が大きな問題である、としています。

ま、その結論はいいんですけど、驚いたのは、下記のような分析で「有配偶女性の出生率は向上している」という説明がなされていたことです。

※以下、ブログ元より転載

少子化①


 

























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最近、MOOCs (Massive Open Online Courses:大規模公開オンライン講座の略とのこと、今回調べて知りました。。)とか、ネット技術の発展により、色んな知識がパソコンひとつで学べるようサービスが急速に発展してきています。

そうした流れに合わせて、「ITを使った学習の方が効率的だ。もうこれからは学校に行かなくてもいい時代になる!」みたいな意見もちらほら見られます。

ゴゴ自身、まあそうかもね、なんて思うところもあったのですが、先日、たまたまとあるシンポジウムに参加したことをきっかけに、「未来の学校」についての明確なビジョンが見えました。

で、個人的な結論としては、ネット動画で学校がいらなくなるなんて時代は来ない、むしろまた、「良い大学へ行く」ことが求められる時代になると考えるに至りました。


これまでの学校というのは、基本的に知識を伝えるための装置でした。シンポジウムの分科会でプレゼンしたOlin CollegeのChachra教授は、空のバケツに水を注ぎこむイラストでその様を表現していましたが、まさにそんな感じですね。

ところでこのOlin College、今回ゴゴは初めて知ったのですが、2006年に初めての卒業生を送り出した非常に新しい工科の単科大学にも関わらず、先進的な教育プログラムで非常に高い評価を得ています。

特徴はいろいろあるのですが、エンジニア育成を目的としながら、デザインアプローチと人文科学における人間的価値の理解を重視したカリキュラムになっていること、それから、企業や社会における実際の課題解決にチームで1年に渡って取り組みながら、学生が自律的に必要な知識を習得していくという教育法を用いている点が非常にユニークであり、示唆に富むものと思います。

つまり、「バケツに水を注ぐ」ような授業で知識を溜め込むことがゴールではなく、実際の問題を解決するために、自分が知らない知識の習得を含めて、「知識を活用できるようになる」ことがゴールに置かれています。ここに、これからの大学の在り方が示されているとゴゴは思います。

まさにMOOCsなど、インターネットの発展で知識を得ることは、非常に簡単になってきています。しかし、単に知識を得れば役に立つのかと言えば、「有名大学卒だけど使えない」という声が昨今チラホラ聞かれる現状を考えれば答えは明白でしょう。

そう考えると、MOOCsというのは、教育へのアクセスという点ではイノベーティブですが、教育法という点では「バケツに水」の旧来的な教育を効率化するだけであると言えます。

とすると、教育におけるより大きな文脈でのイノベーションのテーマは、MOOCsを土台としつつ、学生が知識を現実に有効活用できるようになるための新たな教育プログラムの開発というところにあると思います。
(なので、MOOCsに意味がないと言ってるワケではなく、新たな教育法との補完関係のなかでこそ、その意義が真に発揮されると思います。)

そのために、これからの時代、大学という機関は、学生が取り組める課題テーマを提供し、そこに取り組むチームが集まるハブとなり、自律的な学習を促しながらも知識が偏り過ぎたり、うまく既存の知識にたどり着けない時には手助けをする、そういう役割・場になっていくでしょう。

そして、こうした観点での教育プログラムのデザイン力やコーディネート力の優劣によって、大学間での新たな競争が行われ、その中で「良い大学」で学ぶことが、未来においても社会的成功への一つの道標であることは変わらないだろう、という見方が冒頭の結論の理由です。


タイトルで「未来の〜」とは謳っていますが、この変化は既にいま起こっている変化です。これから大学を選ぼうとする若い人や親御さんは、旧来的な学校ブランドや「ITによる教育革命」の表面的な変化に惑わされることなく、Olinのように「知識を活かす」ことに真剣に取り組む「未来の良い大学」を目指していくことをオススメします。

そして、日本にいち早くそうしたプログラムを提供する大学が増えていくことを期待しています!

この週末、ちょいと考えさせられる機会があり、久々にまた教育関連ネタです。

ここ数年来、キャリア教育の必要性がよく議論され、中学生での職業体験なども一般的になっています。最近では、高校生や中学生のうちから、将来何になりたいかを決めて進路の選択をするのが良い、といった風潮もあるようです。

しかし、ここまで行くとさすがに行き過ぎじゃないの?とゴゴは思っています。そもそも、もう少しで40歳に届かんとする自分自身、「あなたはこの先、何になりたいですか?」って聞かれても、未だ答えなんかありません。もちろん、明確なキャリア目標があって、そこに向けて努力できるなら、それに越したことはないでしょうが、ほとんどのオトナも、そんなもの、はっきりいってない人が大多数でしょう。それを中高生に求めるのはいかがなもんでしょう?

そもそも、キャリア教育に目が向けられるようになったのは、村上龍氏による「13歳のハローワーク」あたりからだと思いますが、氏のもともとの問題意識は、当時の教育行政の方針において、教育とはいかに「良き人間」を育てるか(全人的教育)に主眼が置かれ、本来あるべき「社会において活躍できる能力(人間性も含め)の育成」という観点が置き去りにされていたこと、そうした結果、ニートや引きこもりのような存在が増えてきたことへのアンチテーゼであったと推測します。

つまり、「学びの先には、いずれ世の中に出て何らかの役割を持つのだよ、いま君たちはそこへの準備期間なんだ」ということを伝えるのが主目的であり、何になるのかを早くから決めさせることは本意ではなかったと思うのですが、何か表層的な活動へと、最近のキャリア教育が流れているのではないかと心配しています。

こうしたキャリア教育の弊害として考えられるのは、逆に学ぶことと働くことの関係を歪めるのではないか、ということです。世の中に出て働くのに、数学や哲学なんて使わない、英語や会計を勉強した方が、実学的で役に立つ、という流れを加速するのではないかと思いますが、これこそ「人材亡国」への道だとゴゴは考えます。

近頃、教育論のもうひとつのテーマとして、グローバルで活躍できる人材の育成が謳われていますが、国の内外に関わらず、本当に有能な人材というは、現状に対して「なぜ、どうして?」という視点を持って自ら問いを作り出し、それまで誰も認識していなかった問題を解くことで、新しい価値を生む人です。

それは、イノベーションというものから日々の改善までレベルは色々ありますが、高い視点での問題意識・問いを立てる能力というのは、英語や会計といったハードスキルだけを学んでも身につきません。そして、本来こうした「自ら問いを立てる能力」こそ、高等教育において身につけさせるものだと、ゴゴは考えています。

なので、高校から大学への進路選択においては、自分が興味をもって「なぜ、どうして」を追いかけられそうな分野を選びさえすれば、将来何になりたいかは、ぶっちゃけ無くてもいいとも思います。本当に面白ければ研究者になる道もありますし、全く別の職業に就こうとも、情熱的かつ論理的に「なぜ、どうして」をできる人は、たいていどこに行っても重宝がられ、活躍します。

(ちなみに、役所時代も今の会社でも、新卒採用面接の時は、その人が何に対して、なぜ問題意識をもっているのかをいつも聞いてます。問題意識のありようで、その人の深さが分かるというのが、ゴゴなりの人の見たて方です。些細なことでも、その人が本当に問題意識をもって自分のアタマで考えていることは、一見大きなテーマだけれども、新聞で知ってるだけのような話しとは比べものにならない深みがあるものです。)

「学ぶ」と「働く」は、それが完全に切れていてもダメですが、あまり短絡的につなげようとするのも結局逆効果で、以前の記事で書いたように、大学では、モノゴトをきちんと考える土台となる、真の教養をしっかり身につけて欲しい、それが本当に良い職業人生や国際的視点での人材育成につながるんじゃないの?というのがゴゴの考えです。

というわけで、将来の職業を考えることが、「主体的な問い立て」へと導びく一つのキッカケとなれば、キャリア教育としての効果は十分だと思います。それを、無理にでも何になるかの目標を決めて、そこに向けて一直線に頑張るのだ、というアソビのない人生観を植え付けるようなことはないよう、関係者の方には気をつけていただきたい、というのが今回の結論です。

***

さて、ここからは付け足しの話しですが、上記のような観点での高等教育の内容発展や、高校生が大学・学部の名前や中途半端なイメージではなく、本当に興味をもって学べる先への進路選択をいかにサポートしていくのか、いまゴゴがかかわっている事業が向き合うべき社会課題だな、と強く感じる次第です。

どうやって解決するものか。。。?ヒントをお持ちの方、アイディアくださいませ。

保育園シリーズ、第3回目です。前回、行政措置としての保育園制度と、それによる認可・認証・無認可の保育園の間の補助の違いと運営格差が、待機児童を生みだしているとの考察をしました。今回は、こうしたらええんちゃの?という、ゴゴログ的な本質的解決策を考えます。

まず、制度を考える前提条件として、
1. 子どもの保育環境を健全な水準に保つため、全ての施設に一律に適用される、一定の保育基準が必要

2. それなりの基準を満たすためには、適正な賃金水準での人件費その他で、子ども1人あたりの保育コストも結構かかる(月15〜30万円?)

3. 利用者側のニーズに応じて柔軟に保育園の選択ができるようにしながらも、家庭間の経済力の違いが有利・不利にならない制度が必要

4. 保育園の運営側にも、サービスの供給拡大のインセンティブが働く程度に、それなりの収益が見込めることが必要

と置きます。

さて、どうしたら、全ての前提を満たした制度設計ができるでしょうか?まず、1と4の前提から考えると、保育園運営では、「一定のサービス基準」は規制としつつ、「料金設定は自由」と導けます。

しかしそうすると、現実問題として、2の前提条件とぶつかります。誰が今よりも高い保育料を払えるのか?ということです。

当然、ここで補助金の分配の問題となるのですが、まず、現状では認可に補助が偏っていますから、これをいったんやめて、公立・民間に関わらない補助制度を考えましょう。その場合、各施設に、子どもの定員数に応じて一定額をバラまけばいいのでしょうか?そうすると、今度は3.の問題とぶつかります。

柔軟なサービス選択ということは、人気のある園、そうでない園がどうしても出てきます。なのに同じ補助額で良いのか?

そう考えると、保護者側にバウチャーを渡して、補助金の配分をマーケットの中で調整するようにするのが一番ではないでしょうか。ただし、このバウチャーは、設計上もう一工夫必要です。また3.の前提に関わりますが、家庭によって経済力が違うので、一定額のバウチャーでは子どもにとって不公平です。

というわけで、
・「保育に欠ける」か否かの審査を行政が行なう(公的補助の必要があるか否かのみ判断。まあ、昼間に親が働いていて面倒見れないなら基準クリア、程度のもの)
・保育に欠けると認定された場合、 収入基準に応じた割引率が設定されたバウチャーが発行される
・親は、サービス内容と自己負担額に応じて保育園を選択し、園は割引分の補助金を受け取る。
という設計にすれば、経済力に応じた負担という思想は守りつつ、とはいえある程度は経済力に応じて、どの保育園を選ぶかのニーズを分散させる、という状況を導き出せるはずです。

結果、待機児童もなくなれば、保育園の側も現実的にやっていける料金設定ができ、保育士の待遇もあげられるのではないでしょうか?

こうなると、そもそも公立・私立という色分けに差はなく、例え市が運営していようと、民営化されていることと変わりありません。(財政負担と競争環境維持のため、今回述べた制度を運用するなら、特段の理由なく公立のみに補助を足すのはNGです。)

なので、「バウチャー制度を伴う保育園の民営化」が、現状の保育園問題を解決するための本質的な方策とゴゴは考えます。今の予算の組み換えだけの場合、どれくらいバウチャーで渡せて、自己負担額がどうなるのかまでは試算はできていませんが(多分、保育園側の収支改善の分、平均的には今より負担アップでしょう)、認可に入れたら数万円、もれたら認可外で下手したら10ウン万円、なんて不公平はなくなるでしょう。

これやったら、本当に問題解決すると思うのですけど、いかがでしょう?悪くないようなら、担いでくれる議員さん探してみたく思います。

保育園制度にまつわる問題の本質を探るテーマの2回目です。

前回、 保育園というのは、基本的に公共サービスとして行われているのではなく、「保育に欠ける子」を、個人に変わって行政が保育する「行政措置」なのだ、という話をしました。その結果、現代社会の、主に働く女性のニーズにあわない制度・運営になっている、ということなのですが、まずは、保育園というのは、どのように運営されているのでしょうか・・・?


まず、「認可」「無認可」なんてよく聞きますが、「認可」保育園が、行政措置として行われているものです。それ以外は、基本的に「認可外」となるのですが、東京都は独自に、現代ニーズに合った公共サービスの考え方に基づいて、「認証保育園」という制度を運用しています。

具体的な違いはさておき、ここでは認可・認証(東京都)・その他無認可という違いがあるのだ、ということだけ頭に入れておいてもらえればOKです。
 ※参考:認可と認証の違い (とうきょう福祉ナビゲーションのページ) 

で、認可・認証・その他無認可の保育園の運営は、どうなっているのか?基本的に、認可に補助が手厚く、無認可は補助とか無いんだろうと予測はしていましたが、実情わからないので、グーグル先生にお願いしたら・・・個人の方のブログですが、いいものがありましたので、勝手ながら少し抜粋して引用させていただきます。
 ・ 認可・認証・無認可保育園のそれぞれの保育料と運営費について(保育園運営に関わるの方のブログ)   

例)零歳児を9人預かる場合

認可保育園
・運営費 3300万 人件費 2650万
・職員数 保育士3人 看護師 栄養士 調理師 嘱託医
・保育士年収 500万計算
・月額保育料 305,000円
(現在は1~2割負担:約3〜6万円)

認証保育所
・運営費 1700万 人件費 1350万
・職員数 保育従事職員3人 調理師 嘱託医
・保育士従事職員年収 300万計算
・月額保育料 156,000円
(現在は3~4割負担:約5〜6万円)

無認可保育所
・運営費 1080万 人件費 860万
・職員数 職員2人
・職員年収 300万計算
・月額保育料 100,000円

(以上、抜粋引用)

これ、見てどう思いました?まず、人手のかかる0歳時の例ではあるものの、認可レベルで保育しようとすると、実額コストで30万円かかる、ということに驚きです。そこまでのサービスレベルが必要なのか?という議論はあるかもしれませんが、いずれにしても保育にはカネがかかる、といことです。

さて、ここからが問題の本質なのですが、上記の比較をあらためて見ると、職員の数や、前提年収から推定する職員の質、あと、ここでは出てきませんが、園庭の広さほかの施設の充実ぶりなど、 保育サービスが充実しているほど、個人の利用負担額は低い、という逆転現象がおこっています。
(個人の事業者では、無認可でも善意で頑張っているところも沢山あると思いますが、一般論としては、やはり差が出るものだと思います。)

ここに、待機児童を生みだす構造があります。だれしも、安い上に質もよいなら、そっちがいいですよね。だから、ママさん方は認可保育園に待機するのです。そして、これは認可外の事業者側にも問題を引き起こしています。

「競合」の認可保育園の方が、安くて人気がある、自分のところは補助もない/少ないので、いくらおカネがかかるといっても、あまりに高い保育料では誰も来てくれなくなるから、料金の限界がある。(しかも認証保育園は月額利用料の上限あり。) なので、経営も成り立ちにくいし、当然保育士の給料だって、たいして払えない・・・

こんな業界に参入してくる事業者や、定着して働いてくれる人材は、そうはいないでしょう。結果、認可外でもサービス供給量や人材が不足します。すると今度はそれがまた巡って、ママさん方にとっても、認可をあきらめて認証にしようにもそう選べる園もない、下手すると認証も順番待ち、入れてもどこか不満で認可の待機を続ける、ということに状況を生みだし、より待機児童問題が深刻になるのです。

これこそ、「行政措置」として保育園制度を運用していることの問題です。措置として行なう認可保育園の運営に財政リソースが偏っており、利用者のニーズに応じた適切なリソース配分が妨げられている結果、需要と供給をうまくマッチングさせたりバランスさせるメカニズムが働いていない構造である、と言えます。

じゃあどうすればいいのか?というところですが、そこは次回最終回にて。

(つづく)

ゴゴログ、今回は保育園問題について考えます。待機児童やら保育士の待遇の低さやら、問題アレコレ山積みの保育園制度ですが、いったい何が問題の本質なのか?

ちなみに、ウチでも2年前、保育園探しに苦労しました。認可保育園に申し込むも、共働きなりの世帯収入があるために順位低く入れず、結局カミさんの復職ギリギリのとこで認証の空きが見つかり、てな感じでした。まあそれでも、近くの便利な場所に入れただけでもラッキーなんでしょう。

しかし、「ちょ、おま、こっちはそれなりに税金納めとんのにどういうことやねん?だったらカネ返せよ!!」なんて、心底怒りを感じました。ずっと待ってる人なんて、その比じゃないでしょうね。

という訳で、収入に応じた負担はあってもいいのですが、審査基準に世帯収入の多寡があるために、税金支払いで貢献してるほど、保育サービスが受けにくくなるという、逆差別的な仕組みになっている訳です。なんでそんなイミ分からんことになっているのか?


これはそもそも、保育行政が、「保育に欠ける子どもの保護・養育のために行政として認める措置」であることに端を発しています。「措置」なんです。何です、それ?

措置って、字ヅラからして、いかめしくて融通きかなさそうでしょ?そのとおりです。これは市バスなどのような単なる公共サービスではなく、「社会的な観点から必要と認められる場合に限って、行政が個人にかわって必要な行為をしてあげる」という、家父長的国家観に基づく考え方で制度設計がされています。自分では適切な判断ができない精神病患者を、必要と判断された場合に本人の意思と関係なく無理矢理でも入院させることを「措置入院」といいますが、保育もそういう「措置」なんです、現状は。

もはや、この出発点からして、現代社会のニーズからズレています。措置としての保育が残る部分があってしかるべきですが、今、圧倒的に求められているのは、サービスとしての保育です。この、そもそもの価値観のズレが、話が噛み合わないことの根本要因です。



では、行政措置として行われているがゆえに、保育園は現状どう制度運営されているか、そしてそれを、保育の質は担保しながら、働く女性を支えるための公共「サービス」として機能させるためにはどうすればよいのか、考えていきたいと思います。

(つづく)

本当は二回で終わると思ってたのですが、長くなってしまいました。。大学で教えるべき「教養」として挙げた中で、数学と哲学がどう役に立つのか?という話です。

まず、数学についてですが、数学というのは研究レベルの話は別として、一般的には、

・具体的なモノゴトを、抽象化したカタマリに分解する 
  (=○○をX、△△をYとする)
・あるカタマリと別のカタマリの関係性を構造化/モデル化する 
  (=XとYの関係式を立てる)
・モノゴトの前提が変化した時の結果を予測をする 
  (=Xを仮に2とした場合、Yは~)

というアタマの使い方を身に付けるための学問です。「数学」と聞くと、カッコ内に書いた方をイメージする人が多いと思います。でも、カッコの部分を除けて、あらためて見てください。「モノゴトを分類し、関係性を見つけ、違う場合の結果を予測する(あるいは評価する)」と見てみると、ほとんどの仕事で求められるプロセスと同じではないでしょうか?

つまるところ、数学というのは、多くの人がキライな「数の計算」を行うための学問ではなく、合理的にモノゴトの因果関係をとらえ、普通に起こるレベルの変化に対応する能力を訓練するための学問です。
(個人的な所感ですが、数学に親しんだ人は、数を扱わない事務屋的な仕事でも、理解力や処理能力がかなり高いことが多いです。いわゆる理系脳ってやつでしょうか。まあ、計算はできても。。って人もいますが。)

あと、最近はネットサービスの裏側で統計処理が使われていたり、まさに数学、といったモデルを、せめて概念レベくらいは理解できないとシンドイことも多いので、数学はやはり必須の教養だと思います。


さて、長くなってしまいますが、哲学についても一気にいきます。

哲学は、モノゴトの本質を深く掘り下げて、表面を見ているだけでは分からない「実体」をつかんだり、あるいは、実体・本質の底にある「価値観」の違いを認識し、どう理屈を重ねても相容れない矛盾や混沌、対立状況の中で、あるべき目的やスジ・義を失わずに考えを重ねられるようになるための学問です。
(なので、本当は難解な用語や文章を理解して「フツーの人」には分からない高尚な議論をするためのもの、ではないのですが。。)

上で述べたようなシチュエーションは、面倒な説明をせずとも、普通に仕事や日常の生活の中で日々発生していますよね。しかし、本質をつかまないまま間違ったゴール設定をしたり、噛み合わない議論の中で事が進まなくなる・中途半端な妥協案で終わるということは、話に尽きません。(そしてこれこそ、「ニホンの会社」がダメになった本質だと思います。戦前に高等教育を受けていた人達は、きちんと哲学的思考を教養として身につけていたようですが、今や失って久しい、という状況です。。)

最近は、グローバルに活躍する人材を育てるために英語教育に力を入れよう、ってな話が盛んに聞こえてきます。確かに、英語が出来るようになることは悪くない、やった方がいいでしょう。でも、英語が話せても、哲学的な思考力がない人は、異文化の中でリーダーシップを発揮することはできないと思います。


誰しも、英語は出来るけど手足にしかならない人材になりたい、育てたいわけではないでしょう。それであれば、英語の前にキチンと数学的な論理的思考力や哲学的素養を学ばせるのが、グローバルであろうとなかろうと、社会で活躍する人材を育てるために、大学が本来果たすべき責任だと考えます。

そしてまた、教える目的と方法を工夫すれば、普通の社会人が活用するレベルの内容は、数学も哲学もそんなに難しくする必要はないはずです。研究の先端を求めることやその道の研究者を育てることと、学部レベルの学問の内容は違ってしかるべきです。こうしたことを怠ってきたことが、「行っても役に立たない日本の大学」を生み出したのだと思います。

ただ、最近はリベラルアーツに力を入れる大学も出てきたり、そうした新進の大学が企業の採用担当から評価されたりといったことも、チラホラ聞かれるようになってきました。大学を潰すつぶさないの表面的な議論ではなく、こうしたあるべき高等教育をどう広く実現していくかに、政府も大学側も取り組んでいくことを願います。

前回、今の日本の大学では、学問という観点で個人が社会に出て役に立つようなことはほとんどない、本当に教えるべきは「教養」であり、カギは数学と哲学だ、とお話ししました。今回は、そのつづきです。

まず、「教養」とは何か、ですが、日本語で言う教養には、雑多な物事の薀蓄を知っていることだったり、知識を多く蓄えていることをベースとした、人間の品性に関わることだったり、色んな意味があります。

しかし、今回お話ししたい、大学で教えるべき教養とはそういうことではなくて、リベラル・アーツ、「自由な存在であるための知識・技法」のことを言っています。
(で、何でそういう意味での教養なの?というところは、後で説明します。「社会に出て個人の役に立つ学問、というテーマから、少し遠くなってしまうので。。ヒントというか、ほとんど答えは初回の記事を見ていただければ分かるかと思いますが。)

こうした、「自由な存在であるための知識・技法」という観点から考えた場合、数学・哲学の他に、ディベートなどの議論のための技術、そして現代的には、ITブログラミングや、デザインによる視覚的な表現技法を、「教養」として教えるのが適当だと考えます。特にプログラミングやデザインといった、「作って、見せて、納得させられる」技術は、スピードが求められるにも関わらず理屈にばかりにこだわり、結局はチャンスを逃すというありがちなワナから、個人が脱するための重要な技術だと思います。

ただ、それらの現代的な技術には、強力な「場を動かす力」がありますが、使えるシーンや相手、タイミングが限られます。(例えばITでもデザイン企業でもない普通の会社に勤める人なら、なんの議論もなく、いきなりプログラムを動かしたりスケッチを見せるだけでは、必ずしも人や組織を動かせないことは当然のことと理解いただけるでしょう。) やはり、ロジックやスジ・本質といった、根本的な「考える力」がどんなシーンでも求められるのであり、その「考える力」を磨くための材料として、数学や哲学はうってつけの学問なのです。

で、数学や哲学といった、小難しそうで回りくどそうで現実から離れたようなイメージの学問を学ぶことが、社会で活躍するための「考える力」に結びつくのか?ということですが・・・思ったより長くなってしまったので、また次回に分けさせてください。


しかし、整理するとこんなにかかるとは。。これだけの内容の下地を共有せずに、これまでFacebookなどで断片的に色々コメントしてたのかと思うと、ちょっと何とも言えない感じですね。勝手につぶやいてただけなので、誰かに迷惑かけてたワケではないと思いますが、独りよがりというか。。単に今回のまとめ方が悪いだけかもしれませんけど。もっと短くしろとか、分かりにくいとか、率直な感想あればお待ちしています。

(つづく)

ゴゴログ第二弾、引き続き教育論ですが、今日は角度を変えて、個人にとって役に立つ大学教育について考えます。

まず、少し極端な結論から言うと、今の日本の大学は、学問という観点で、社会に出てから役に立つことはほとんどありません。大学で講義をひたすら聞いて暗記したり板書を書き写したりして、一生懸命取った単位の内容は、よっぽど関連した専門領域に進むのではない限り、世の中に出てからの活用価値はほぼゼロです。

もちろん、大学卒、特に有名大学出というタイトルを得ることは総じてトクですし、学生生活の中で色んな体験や友人との交流を重ねることは人生においてとても大切な経験なので、「大学に行くこと」自体は価値があります。行けるなら、極力大学に行くこと方が良いと思います。

しかし、大学が本来提供すべき「学問」というコンテンツは、ほとんどが人生において役に立ちません。まさに、友人からノートを借りて効率よく単位を取得し、講義に出るかわりに自分の興味関心に時間を費やす方がよっぽどマシ、というのが日本の大学教育の現状だと思います。

では、大学では勉強なんかせずに遊んでいればいいのか?といえば、本来はそんなことはないはずです。現に、今の大学生は質が低い、役に立たないと叩かれているわけで、それは彼ら自身の問題というより、本来大学が提供すべき学問というコンテンツ・質が、日本では十分に足りていない、ということです。

(ちなみに、叩いているオトナも実はたいして偉くないのですが、知の国際競争の中で、社会人に求められるレベルが上がっているので、組織として大学生に求めるレベルが上がっている、という構造です。大学生諸君、キミ達は少なくともバカにされて卑屈になることはありません。バカにしているエラそうな人たちは、今の時代に生まれていたら、もっとバカだつたはずです。ここからどう生きていくかが勝負です。)

そこで、本来、大学が提供すべき学問コンテンツとは何か?ですが、ゴゴの意見は、「教養」です。最近は池上彰さんなどもそういう主張・活動をしておられるので、少しは違和感がなくなってきているかもしれません。じゃあ、「教養」って何よ?どうやって学ぶのよ?という話になるわけですが、長くなるので、そこは次回。カギは数学と哲学、とだけ予告しておきましょう。実学志向とは真逆の二大学問が、なぜ社会に出て役に立つのか・・・お楽しみに。

(つづく)

ゴゴログの記念すべき1本目のネタは、「教育」についてです。

「教育論」については、さまざまな切り口がありますが、まずは教育そもそも論から始めたく思います。教育議論をするにあたっての、一番の土台となるパートです。

で、まずは質問です。

義務教育を中心とする、「公教育」(=税金などを投入して、社会として支えている教育サービス)の、顧客と成果は何だと考えますか? 社会の中のシステムとしての教育を通じて、果たすべきミッションはいったい何でしょうか?



顧客は、個人個人の子どもでしょうか?それとも親ですか?そういう側面も完全に無視はできないでしょうが、自分は基本的にはそれは違うと考えています。公教育の顧客は、社会そのもの、あるいは我々みなさん全員、と考えるのが妥当です。 

少し漠然とした話にピンとこないかもしれませんが、義務教育は無償で提供され、その費用はすべて税金で賄われています。 つまり、我々社会全体が教育におカネを支払っています。逆に、子ども本人も親も、基本的には何の直接負担をしていません。

ではなぜ、そのようなシステムになっているのか? それは、現代社会のありようと深く関わっています。近代以降の社会というのは、封建的で身分が固定された時代とは全く違います。何が全く違うかと言えば、「個人の自由」という根本思想をベースに成り立っている点であり、そのために、個人個人が、自らの選択で自らの職業を選べるという可能性を、「自由な社会」を成り立たせるなかでの中心的な価値の一つに置いています。

ではでは、個人が自らの選択で職業を選ぶことを可能にするためには、何が必要か・・・?そう、そのために必要最低限な知識・能力のベースを、貧富に関わらず、あまねく提供するために始まったのが義務教育という社会制度なわけです。これがないと、実質的な自由は実現されず、不平等が社会の不安定性をもたらすだけの、名ばかりの「自由社会」になってしまいます。

つまり、公教育の成果は、個人個人に対して平等に、職業選択のための必要最低限の機会を担保することであり、ミッションは、その成果を通じて、自由で平等な社会を維持することなわけです。 



世に語られる「教育議論」においては、このもっとも重要な出発点、教育議論においておさえるべきスジを欠いたものがかなり多いことが、「教育問題」におけるもっとも大きな「問題」と、個人的には思えます。

子どもの自由・個性を過度に信奉する議論や、学校は親のニーズにこたえるべきとの教育=サービス業議論は論外として、学校選択制やはたまた教育バウチャー制が真面目に語られているのを見ると、立派な肩書きの論者に、「あまねく平等な機会を与える」という基本的な価値観を、どう考えているのかと聞いてみたくなります。

少なくとも義務教育は、どんなに改善の効率が悪くとも、一律に底上げを目指していくべきものであって、子どもや親の「個人的利益」をもとにした競争原理をもって改善を図るべきものではないと考えます。論点は、公教育における機会平等vs.個人の受益権ということになりますが、先にのべた公教育の意義を考えれば、答えは自明です。(教師間の評価をもとにした競争原理は、ある程度あってしかるべし、とは思いますが。)

とはいえ、進学率が向上し、義務教育だけでは十分な職業選択が難しくなっているという時代の進展に加え、幼少時からの受験を通じた私学進学や上位大学における親の年収帯の偏りなど、貧富の差による「教育格差」が現実のものになってきていることは、結構差し迫った問題だと思います。

財政問題にかかわるために簡単ではないものの、高校教育の実質無償化や奨学金制度の充実など、「自由な社会の維持」の観点から必要な政策にフォーカスして、政府は問題解決に取り組んでほしいと思います。


(参考)
ちなみに今回まとめた「教育と自由な社会の関係」的な考え方については、哲学論を専門とする西研(にし・けん)先生の著作や論述をベースとして理解を積み重ねた部分が多いです。多謝。
 ・哲学は何の役に立つのか (新書y (102))


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