「はだしのゲン」が松江市の小中学校で閲覧禁止とされた問題、個人的にそんなに関心高いわけではないですが、ネタ枯れ気味なので、久々の記事アップのため、ちょいと取り上げてみます。

今回の話については、「はだしのゲンは、悲惨で強烈な描写があり、子どもの閲覧には問題がある」という趣旨で、松江市教育委員会が各学校に対し閉架扱いを要請したということに対し、これに対し、「はだしのゲンは、原爆の悲惨さを伝えるものであって、子どもであっても読む価値がある」といった観点からの批判が巻き起こっている、という状況のようですね。

つまり、「はだしのゲン」は、小中学生に読ませるべきかそうではないか、ということが論点になっているようで、今朝出がけに目にしたワイドショーでも、その観点から、街頭インタビューで双方の意見のコメントが取り上げられてました。

まあ、感覚的には、原爆投下の悲惨さを知ることの意義を考えて、閲覧禁止はどうなん?と個人的に感じるところですが、そうはいっても、子どもに悲惨な描写を見せるのはどうか?という意見も、意見としては理がないことではないので、内容・描写の是非を言い争ったところで、結論の出る話ではありません。そう、内容の是非に関する「価値観」を問うても仕方がないのです。

この問題の本質は、個人の価値判断ではない、学校組織の運営や生徒個人の「知る権利」に影響を及ぼす行政方針の決定について、どのようなプロセスと、どのような判断材料でそうした決定をしたのか、その2点における妥当性に関わることだとゴゴ的には考えます。
(その意味において、有楽町や新橋駅前で適当に聞けた街頭インタビューを垂れ流すのは意味があるのかと思うのですが、誰がこういう手法を考えたんでしょう?アメリカにいる時に、ニュースでこうした街頭インタビューを見た記憶はないのですが、日本独自の手法なんですかね?)

そうした点で、まずもってマスコミ的に調査し、報道すべきは、松江市教育委員会が、どうプロセスで今回の決定がなされたのか?ということです。で、さくっとグーグルさんに聞いてみたら、NHKはちょいと価値ある報道をしてくれてました。
・「はだしのゲン」閲覧決定は事務局決定
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130820/k10013906771000.html

つまり、教育委員会として通知したとされている「閉架要請」が、実は教育委員会としての正式な意思決定を経ずに、「事務局」が勝手に流していた、というハナシらしいです。この記事の中では、「○○教育長は、『要請に関して教育委員を交えて議論する義務はないが、反応の大きさを考えると報告するべきだった』と話しています。」とも報じられています。

ここで、勘のいい人は、逆にさらに混乱してきたのではないでしょうか。「え、教育委員会要請なのに、教育委員は議論してないの?」「教育委員会があって、それとは別に『事務局』があるの?」「『教育長』は、教育委員に報告すべきだったと言っているけど、教育長は事務局の人?教育委員会の人?」不思議なことだらけです。

この先は、ゴゴはうまく説明できない摩訶不思議さですが、まず、「事務局」とされているのは、都道府県レベルでは「教育庁」という名称を持つことが多い行政執行組織であり、「教育長」は、その執行機関の部門トップということです。一方、教育委員会は、行政トップの指揮権から独立して執行機関の監督を行う機関であり、「教育委員長」は、「教育長」も1委員とするなかでの、委員会の長です。つまり、教育長と教育委員長は別の人です。で、教育委員会は最高意思決定機関のようであるけれども、そこの決定を経なくても、執行決定はできるということ・・・?のようです。

ここから見えてくるのは、執行機関と監督機関が形式的には分離されているが、実際にはガバナンスが効いていない、という構造的な欠陥です。生徒個人の知る権利を制限する決定にもかかわらず、「教育委員を交えて議論する義務はないが」というなら、教育委員会に図る義務があることはいったい何なんでしょうか?

この教育委員会の形骸化は、松江市に限ったことではなく、戦後の教育行政に関わるさまざまな過程を経て、現在のような意味の分からない組織になっているようです。教育行政はすべて知事・市長の指揮下にあるのだという独裁的な考え方には真っ向反対ですが、一方で、現状の教育委員会制度は全く機能しておらず、抜本的見直しをすべきというのがゴゴの考えです。


さて、この意思決定プロセスのズサンさで、これ以上言うこともないくらいですが、仮にこれが教育員会の正式討議を経て決定されていたとした場合であっても、なぜ、こうした大きな制限(学校内に限るとはいえ、閲覧禁止という個人の行為制限に類する決定)をしたのか?という点についても、確認が必要なことだと思います。

表面的に伝わってくる話では、「子どもが見るには悲惨すぎて不適切な描写がある」という理由のようですが、具体的に、そうした描写による具体的な問題はなんだったのか?ということです。これが、事務局担当であれ、教育委員であれ、その人々の「個人的な価値観」を判断材料に決定したものであれば、行政決定として、まったく正統性がありません。少なくとも、自分自身小学生時代に読んだ記憶がありますが、自らの精神発達に悪影響を及ぼしたと思うことはありません。

一方で、こうした決定をするに至った背景として、例えば子どもが「はだしのゲン」を読んで、面白半分で誰かをバカにしたりするような問題が発生していた可能性もありますし、非常に多くの保護者・市民から、「問題だ」とする意見があったのかもしれません。一律の閉架措置は行き過ぎかもしれませんが、決定背景として考慮すべき問題があって、きちんとした意思決定プロセスで決められた話なら、たとえば低学年の生徒が読む場合には、親や教師が何らかの配慮をするというのは、検討すべきことだともいえます。それを、「はだしのゲンは子どもであっても読む価値があるのだ」と批判するのは、これまた逆に、ひとつの個人的価値観の押し付けにすぎません。

いずれにせよ、なぜ今回のような決定を行うにいたったのか、その課題背景としてどのような事実があったのかなかったのかをきちんと調べて報道することは、マスコミが本来なすべきことだとゴゴは考えます。
(不確かな情報ですが、反戦=左翼的思想に反感を持つ右翼系団体が圧力をかけていた、というハナシもあるようです。これが理由というは個人的には眉唾ですが、何を材料に今回の決定を行うにいたったのか、興味のあるところです。)

というワケで、ネタ切れの中での埋め草程度に思った話が長くなってしまいましたが、漫画の内容のいい悪いではなくて、行政決定としてのプロセス・背景理由の妥当性を考えましょうね、というハナシでした。