昨晩、友人がシェアしてくれた記事に絡んでのよもやま話です。ほぼ個人的感想文ですが、FBのコメントだけで流してしまうのはもったいなく思ったので、書き留めておきます。

発端のネタは、朝の通勤時間の地下鉄の駅で、ひっそり一流のバイオリン奏者が演奏していたところ、誰もさして気にかけずに通り過ぎてしまった。というストーリーです。

http://www.facebook.com/photo.php?fbid=10200422383787211&set=a.2168156208503.2153830.1384647064&type=1

この記事での意図は、一般の人々の、忙しさにかまけての感受性の低さを課題視するもののようですが、これに対して、友人は、音楽の質の良し悪しに、実はそれほどの価値がなくて、みんな一流の肩書きや豪華なシチュエーションをありがたがっているだけかもしれないね、とコメントしていました。


これを読んで、どっちの言ってることも理解できるけど、どっちに立っても、ちょっと違和感あるなあと感じて、これはなかなか面白いテーマと、少し考えこみました。

この対立するモノの見方の間に、ふと浮かんだのは、「間主観性」という哲学的概念です。ゴゴもキチンと勉強したわけではなく、以前紹介した「哲学入門」で仕入れた程度の知識ですが、超ザックリ言えば、現実世界に絶対的な真理は存在せず、ただ個人と個人の関係性の合間(間主観)に事実が存在する、という考え方です。

ここに何か比喩的なヒントを得て、自分なりに至った答えは、演奏の質に本来的価値がないワケでも、通り過ぎる人々の感受性が低いワケでもなく、「コンテキストの違い」、つまり、一流の演奏がキチンと味わわれるのは、単に朝の通勤時間の駅ではなかっただけのこと、という考えです。

もしこの演奏家が、初夏の金曜日の夜7時、例えば絶妙な雰囲気の日比谷公園の噴水の前で同じように演奏したとして、そこにたまたま居合わせた人たちは、ひょっとしたら高いチケットを買って、着飾ってコンサートに行く人にも増して、深く彼の演奏を堪能できるかもしれない。

結局は、伝え手と受け手、どちらがどうという話ではなく、両者がうまく噛み合う関係性、コンテキストを設定できるか?ではないかということです。

(その意味で、この元記事は、そういうセッティングで、実は普通の人々を一段低くみている企画者こそが、自らの浅さをさらけ出してとるんじゃないのw、とも感じました。)

そして、こう書いている中で、まさに現代アートが抱える問題というのは、このコンテキストの欠如だと思い至りました。「意味が分からない芸術家」と、「感性が低く価値を知らない普通の人々」が、互いに了解可能なコンテキストを用意できれば、もっと広くアートが楽しまれるようになるんじゃないかと。

なんか最後は昨日の記事と妙に結びついてしまいましたが、アートとコンテキスト、個人的にもっと追求してみたく思います。