本当は二回で終わると思ってたのですが、長くなってしまいました。。大学で教えるべき「教養」として挙げた中で、数学と哲学がどう役に立つのか?という話です。

まず、数学についてですが、数学というのは研究レベルの話は別として、一般的には、

・具体的なモノゴトを、抽象化したカタマリに分解する 
  (=○○をX、△△をYとする)
・あるカタマリと別のカタマリの関係性を構造化/モデル化する 
  (=XとYの関係式を立てる)
・モノゴトの前提が変化した時の結果を予測をする 
  (=Xを仮に2とした場合、Yは~)

というアタマの使い方を身に付けるための学問です。「数学」と聞くと、カッコ内に書いた方をイメージする人が多いと思います。でも、カッコの部分を除けて、あらためて見てください。「モノゴトを分類し、関係性を見つけ、違う場合の結果を予測する(あるいは評価する)」と見てみると、ほとんどの仕事で求められるプロセスと同じではないでしょうか?

つまるところ、数学というのは、多くの人がキライな「数の計算」を行うための学問ではなく、合理的にモノゴトの因果関係をとらえ、普通に起こるレベルの変化に対応する能力を訓練するための学問です。
(個人的な所感ですが、数学に親しんだ人は、数を扱わない事務屋的な仕事でも、理解力や処理能力がかなり高いことが多いです。いわゆる理系脳ってやつでしょうか。まあ、計算はできても。。って人もいますが。)

あと、最近はネットサービスの裏側で統計処理が使われていたり、まさに数学、といったモデルを、せめて概念レベくらいは理解できないとシンドイことも多いので、数学はやはり必須の教養だと思います。


さて、長くなってしまいますが、哲学についても一気にいきます。

哲学は、モノゴトの本質を深く掘り下げて、表面を見ているだけでは分からない「実体」をつかんだり、あるいは、実体・本質の底にある「価値観」の違いを認識し、どう理屈を重ねても相容れない矛盾や混沌、対立状況の中で、あるべき目的やスジ・義を失わずに考えを重ねられるようになるための学問です。
(なので、本当は難解な用語や文章を理解して「フツーの人」には分からない高尚な議論をするためのもの、ではないのですが。。)

上で述べたようなシチュエーションは、面倒な説明をせずとも、普通に仕事や日常の生活の中で日々発生していますよね。しかし、本質をつかまないまま間違ったゴール設定をしたり、噛み合わない議論の中で事が進まなくなる・中途半端な妥協案で終わるということは、話に尽きません。(そしてこれこそ、「ニホンの会社」がダメになった本質だと思います。戦前に高等教育を受けていた人達は、きちんと哲学的思考を教養として身につけていたようですが、今や失って久しい、という状況です。。)

最近は、グローバルに活躍する人材を育てるために英語教育に力を入れよう、ってな話が盛んに聞こえてきます。確かに、英語が出来るようになることは悪くない、やった方がいいでしょう。でも、英語が話せても、哲学的な思考力がない人は、異文化の中でリーダーシップを発揮することはできないと思います。


誰しも、英語は出来るけど手足にしかならない人材になりたい、育てたいわけではないでしょう。それであれば、英語の前にキチンと数学的な論理的思考力や哲学的素養を学ばせるのが、グローバルであろうとなかろうと、社会で活躍する人材を育てるために、大学が本来果たすべき責任だと考えます。

そしてまた、教える目的と方法を工夫すれば、普通の社会人が活用するレベルの内容は、数学も哲学もそんなに難しくする必要はないはずです。研究の先端を求めることやその道の研究者を育てることと、学部レベルの学問の内容は違ってしかるべきです。こうしたことを怠ってきたことが、「行っても役に立たない日本の大学」を生み出したのだと思います。

ただ、最近はリベラルアーツに力を入れる大学も出てきたり、そうした新進の大学が企業の採用担当から評価されたりといったことも、チラホラ聞かれるようになってきました。大学を潰すつぶさないの表面的な議論ではなく、こうしたあるべき高等教育をどう広く実現していくかに、政府も大学側も取り組んでいくことを願います。