ゴゴログの記念すべき1本目のネタは、「教育」についてです。

「教育論」については、さまざまな切り口がありますが、まずは教育そもそも論から始めたく思います。教育議論をするにあたっての、一番の土台となるパートです。

で、まずは質問です。

義務教育を中心とする、「公教育」(=税金などを投入して、社会として支えている教育サービス)の、顧客と成果は何だと考えますか? 社会の中のシステムとしての教育を通じて、果たすべきミッションはいったい何でしょうか?



顧客は、個人個人の子どもでしょうか?それとも親ですか?そういう側面も完全に無視はできないでしょうが、自分は基本的にはそれは違うと考えています。公教育の顧客は、社会そのもの、あるいは我々みなさん全員、と考えるのが妥当です。 

少し漠然とした話にピンとこないかもしれませんが、義務教育は無償で提供され、その費用はすべて税金で賄われています。 つまり、我々社会全体が教育におカネを支払っています。逆に、子ども本人も親も、基本的には何の直接負担をしていません。

ではなぜ、そのようなシステムになっているのか? それは、現代社会のありようと深く関わっています。近代以降の社会というのは、封建的で身分が固定された時代とは全く違います。何が全く違うかと言えば、「個人の自由」という根本思想をベースに成り立っている点であり、そのために、個人個人が、自らの選択で自らの職業を選べるという可能性を、「自由な社会」を成り立たせるなかでの中心的な価値の一つに置いています。

ではでは、個人が自らの選択で職業を選ぶことを可能にするためには、何が必要か・・・?そう、そのために必要最低限な知識・能力のベースを、貧富に関わらず、あまねく提供するために始まったのが義務教育という社会制度なわけです。これがないと、実質的な自由は実現されず、不平等が社会の不安定性をもたらすだけの、名ばかりの「自由社会」になってしまいます。

つまり、公教育の成果は、個人個人に対して平等に、職業選択のための必要最低限の機会を担保することであり、ミッションは、その成果を通じて、自由で平等な社会を維持することなわけです。 



世に語られる「教育議論」においては、このもっとも重要な出発点、教育議論においておさえるべきスジを欠いたものがかなり多いことが、「教育問題」におけるもっとも大きな「問題」と、個人的には思えます。

子どもの自由・個性を過度に信奉する議論や、学校は親のニーズにこたえるべきとの教育=サービス業議論は論外として、学校選択制やはたまた教育バウチャー制が真面目に語られているのを見ると、立派な肩書きの論者に、「あまねく平等な機会を与える」という基本的な価値観を、どう考えているのかと聞いてみたくなります。

少なくとも義務教育は、どんなに改善の効率が悪くとも、一律に底上げを目指していくべきものであって、子どもや親の「個人的利益」をもとにした競争原理をもって改善を図るべきものではないと考えます。論点は、公教育における機会平等vs.個人の受益権ということになりますが、先にのべた公教育の意義を考えれば、答えは自明です。(教師間の評価をもとにした競争原理は、ある程度あってしかるべし、とは思いますが。)

とはいえ、進学率が向上し、義務教育だけでは十分な職業選択が難しくなっているという時代の進展に加え、幼少時からの受験を通じた私学進学や上位大学における親の年収帯の偏りなど、貧富の差による「教育格差」が現実のものになってきていることは、結構差し迫った問題だと思います。

財政問題にかかわるために簡単ではないものの、高校教育の実質無償化や奨学金制度の充実など、「自由な社会の維持」の観点から必要な政策にフォーカスして、政府は問題解決に取り組んでほしいと思います。


(参考)
ちなみに今回まとめた「教育と自由な社会の関係」的な考え方については、哲学論を専門とする西研(にし・けん)先生の著作や論述をベースとして理解を積み重ねた部分が多いです。多謝。
 ・哲学は何の役に立つのか (新書y (102))