ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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最近、MOOCs (Massive Open Online Courses:大規模公開オンライン講座の略とのこと、今回調べて知りました。。)とか、ネット技術の発展により、色んな知識がパソコンひとつで学べるようサービスが急速に発展してきています。

そうした流れに合わせて、「ITを使った学習の方が効率的だ。もうこれからは学校に行かなくてもいい時代になる!」みたいな意見もちらほら見られます。

ゴゴ自身、まあそうかもね、なんて思うところもあったのですが、先日、たまたまとあるシンポジウムに参加したことをきっかけに、「未来の学校」についての明確なビジョンが見えました。

で、個人的な結論としては、ネット動画で学校がいらなくなるなんて時代は来ない、むしろまた、「良い大学へ行く」ことが求められる時代になると考えるに至りました。


これまでの学校というのは、基本的に知識を伝えるための装置でした。シンポジウムの分科会でプレゼンしたOlin CollegeのChachra教授は、空のバケツに水を注ぎこむイラストでその様を表現していましたが、まさにそんな感じですね。

ところでこのOlin College、今回ゴゴは初めて知ったのですが、2006年に初めての卒業生を送り出した非常に新しい工科の単科大学にも関わらず、先進的な教育プログラムで非常に高い評価を得ています。

特徴はいろいろあるのですが、エンジニア育成を目的としながら、デザインアプローチと人文科学における人間的価値の理解を重視したカリキュラムになっていること、それから、企業や社会における実際の課題解決にチームで1年に渡って取り組みながら、学生が自律的に必要な知識を習得していくという教育法を用いている点が非常にユニークであり、示唆に富むものと思います。

つまり、「バケツに水を注ぐ」ような授業で知識を溜め込むことがゴールではなく、実際の問題を解決するために、自分が知らない知識の習得を含めて、「知識を活用できるようになる」ことがゴールに置かれています。ここに、これからの大学の在り方が示されているとゴゴは思います。

まさにMOOCsなど、インターネットの発展で知識を得ることは、非常に簡単になってきています。しかし、単に知識を得れば役に立つのかと言えば、「有名大学卒だけど使えない」という声が昨今チラホラ聞かれる現状を考えれば答えは明白でしょう。

そう考えると、MOOCsというのは、教育へのアクセスという点ではイノベーティブですが、教育法という点では「バケツに水」の旧来的な教育を効率化するだけであると言えます。

とすると、教育におけるより大きな文脈でのイノベーションのテーマは、MOOCsを土台としつつ、学生が知識を現実に有効活用できるようになるための新たな教育プログラムの開発というところにあると思います。
(なので、MOOCsに意味がないと言ってるワケではなく、新たな教育法との補完関係のなかでこそ、その意義が真に発揮されると思います。)

そのために、これからの時代、大学という機関は、学生が取り組める課題テーマを提供し、そこに取り組むチームが集まるハブとなり、自律的な学習を促しながらも知識が偏り過ぎたり、うまく既存の知識にたどり着けない時には手助けをする、そういう役割・場になっていくでしょう。

そして、こうした観点での教育プログラムのデザイン力やコーディネート力の優劣によって、大学間での新たな競争が行われ、その中で「良い大学」で学ぶことが、未来においても社会的成功への一つの道標であることは変わらないだろう、という見方が冒頭の結論の理由です。


タイトルで「未来の〜」とは謳っていますが、この変化は既にいま起こっている変化です。これから大学を選ぼうとする若い人や親御さんは、旧来的な学校ブランドや「ITによる教育革命」の表面的な変化に惑わされることなく、Olinのように「知識を活かす」ことに真剣に取り組む「未来の良い大学」を目指していくことをオススメします。

そして、日本にいち早くそうしたプログラムを提供する大学が増えていくことを期待しています!

2月はどうもアンテナが立つネタがなく、ブログ更新サボりまくりだったのですが、久々にピピッとくる香ばしそうなネタが入ってきました。

ドワンゴ就職受験料、厚労省が中止求め行政指導(Yomiuri Online)
来春卒業予定の大学生らの採用を巡り、大手IT企業「ドワンゴ」(東京)が入社希望者から受験料を徴収する制度を導入した問題で、厚生労働省東京労働局が「新卒者の就職活動が制約される恐れがある」として、職業安定法に基づき、次の2016年春卒の採用から自主的に徴収をやめるよう行政指導をしていたことがわかった。」 

これ、皆さんどう思います?ツイッター上では「厚労省、バカじゃねーの?」的な反応がわりかし普通だったように思われますし、ゴゴも最初は同じくアホちゃうか?と思いました。「職安法?しかも行政指導?www」ってな感じです。

ちょいとウンチクになりますが、職業安定法とはどんな法律かというと、主に職業紹介に関して規制する法律です。法の最初に掲げられている目的を見てみると、
 
(法律の目的)
第一条  この法律は、(中略)、公共に奉仕する公共職業安定所その他の職業安定機関が関係行政庁又は関係団体の協力を得て職業紹介事業等を行うこと、職業安定機関以外の者の行う職業紹介事業等が労働力の需要供給の適正かつ円滑な調整に果たすべき役割にかんがみその適正な運営を確保すること等により、(中略)、もつて職業の安定を図るとともに、経済及び社会の発展に寄与することを目的とする。

とされています。さらに、この法律は労働関連法の憲法ともいえる労働基準法の第6条、「何人も、法律に基いて許される場合の外、業として他人の就業に介入して利益を得てはならない。(中間搾取の禁止)」という規定を土台としてつくられています。つまり、不当にピンハネすんなよコラ、という法律です。

というワケで、職業紹介ではないドワンゴの取り組みに関して職安法で対応とは何事ぞ?しかも昭和でもないのにいまさら行政指導かよw、というのが最初の感想でした。


しかしですね、ここは念のためと法文を確認すると・・・

(報酬受領の禁止)
第三十九条  労働者の募集を行う者及び第三十六条第一項又は第三項の規定により労働者の募集に従事する者(以下「募集受託者」という。)は、募集に応じた労働者から、その募集に関し、いかなる名義でも、報酬を受けてはならない。

とばっちり規定されておるではないですか。。というワケで、厚労省の指導は当然のことでありました。法律で明確に禁止されているのですから仕方ないですね。

ここで、「そんなにばっちり違反してるんなら、指導なんてぬるいこと言ってる場合じゃないんじゃないの?」という疑問も当然あるかと思いますが、ここが今回の対応の妙で、ドワンゴの今回の取り組みというのは、大量かつ入社意思の薄い応募を課金によって制限しようという取組みなワケで、法がそもそも禁じている「中間搾取」を目的とした行為ではないことは明白です。

昨今の就職活動の在り方に様々な疑問が呈されている社会状況の中で、杓子定規に即座に法の適用を行うなんて無粋なことをするのではなく、行政指導というカタチで、「来年はうまいやり方考えてね~」とやんわりメッセージを送ったのは、むしろ法文の規定と現実問題の間でバランスをとった巧手であるといえましょう。

ちゃんと法律を理解しておくことは重要ですね。ちなみに、職安法第39条に違反したときの罰則は、「六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金」でございました。

(法律見る時は、罰則を見ることが肝心ですよ!というワケで、こちらの記事もどうぞ→「法律を読み解いてみよう!話題の特定秘密保護法案を題材に、超シンプルな法律の読み解き方を教えます。」

ビットコイン、Mt.Goxのトラブルで朝のワイドショーでも取り上げられるくらいのポピュラーな話題になってますね。

ビットコイン問題については、昨年の記事で終わりにしたはずでしたが、今回の事件を契機にビットコインがクローズアップされた結果、「ビットコインなんて詐欺みたいなもんでしょ」vs「ビットコインは価値がある、今回の問題は部分的な話だ」という意見対立がみられ、多くの人にとっては何が本当やらよくわからないと思いますので、それぞれの主張のポイントを簡単に整理しつつ、ビットコインと言う存在の矛盾について説明してみます。

(ビットコインについて詳しく理解したい方は、同じビットコインカテゴリの過去記事をご参照ください。)


1.「取引手段」としてのビットコインの価値 (技術的側面)
これは技術的思想としては良くできていて、「ブロックチェーンとプルーフオブワーク」という設計による、不正な使用の回避やビットコインの生成プロセスにおける「信頼性」の構築の仕方は、評価に値すると思います。IT系の人など、ビットコインを認める人たちは、ほぼこの点でビットコインを信用していると思います。


2.「貨幣(通貨)」としてのビットコインの価値 (貨幣論の側面)
こちらについてはまったく噴飯モノで、ビットコインに「貨幣的価値」はありません。貨幣の価値とは、大きく言えば「価値の信頼性(価格の安定性)」と、「流通範囲の広さ(いつでもどこでも使える)」につきます。まとめて言えば、どこに行っても同じ値段のものを買える、ということです。この点、ビットコインはそのどちらも満たしません。


3.ビットコインの矛盾点
ビットコインは、「技術的に取引上の信頼性が高く、それゆえに人々に信用されるならば、立派な貨幣である」、というのがIT派の人々の主張かと思いますが、取引上の「信頼性」と、貨幣としての「信用性」はまったく別のモノです。

前者は「ニセモノではない」ことを言っており、後者は「一定の価値に値する」ことを言っていますが、信頼と信用が概念的になんとなく似ているために、まぜこぜに理解されているところが、それぞれの主張が擦り合わない理由かと思われます。

たとえばここに1枚の珍しい切手があり、絶対にニセモノではないという保証があるとします。しかしだからといってこれが10万円の価値の通貨です、と言われても、それは一般的に認められないですよね。珍しい切手が好きであれば10万円出して交換してもいいかもしれませんが、興味がなければそれで10万円相当のモノは渡せないですよね。珍しい切手という「信頼性」はあるものの、価値の「信用性」はない、という状態です。

ビットコインはほぼそういったものです。ビットコインというデータのカタマリが好きならば、10万円だろうとなんだろうと払うのは勝手ですが、それが希少であるということとニセモノではないという「信頼性」だけで、世の中的に10万円の価値があると主張するのは無理があります。ビットコインは貨幣ではなく、いつでもどこでも使える保障はないのですから。

(ちなみに、普通の紙幣も「国家の信用力」というあいまいなものを背景にして発行されているから同じ、という意見をみかけますが、国には徴税権という強力な権限が担保にあることをお忘れなく。)


4.結論
というわけで、確かにMt. Goxの問題は一組織の問題であってビットコインシステム全体の問題ではありません。ビットコインそのものは「単なる詐欺」と切り捨てるには、少なくとも技術的にまっとうな存在であると思われます。

しかし、ビットコインはそうした技術的な側面に頼り切って、そもそもの「貨幣」としての信用性を担保する仕組みはない(というか出発点としてあえて否定している)という点で、信用リスクに対する脆弱さを抱えています。

なので、今回の事件は、技術的側面では関係のない組織運営の問題と言えるかもしれませんが、信用性の観点でみれば、そもそもそ信用根源のあいまいなビットコインという存在に致命的な問題を引き起こしたというのがゴゴの見方です。

今回の問題をきっかけに新規の取引参加者が減ってしまえば、ビットコインの価格はどこまでも落ちていくだろうといのがゴゴの個人的な見立てです。そもそもが、1ビットコインがいくらかという相場観を守る信用度合が何もないのですから、買う人がいなくなればフリーフォールになるのは当然のことかと。ま、あくまでも個人の予測ですが。
 
以上、ビットコイン問題を理解する上での一助になれば。
 

前回、脱原発かどうかではなくて、再稼働に反対なのか、それとも賛成・容認なのかが本当の争点だと書きました。

で、賛成・反対どちらをとるか、その理由はなぜかを考えてみてください、としていましたが、皆さんいかがでしょうか。

この問題をきちんと考えるためには、原発が停止状態にあることと稼働状態にあることの「差異」を理解していないといけません。メリデメとかプロコンとかってやつです。

まず前提として、普通に止まっている原発だろうと、いますでに溜まっている放射性廃棄物や原子炉の完全処分は、「脱原発」と叫んだところですぐには実現できないことなので、再稼働しようとしまいと、原発はこの先何十年も存在し続ける、ということは押さえておくべき事実です。

さてでは、再稼働したときと止めているとき、そのメリットデメリットは何でしょうか?

再稼働のメリット
まず、再稼働した場合のメリットは、輸入燃料費を下げられることです。最近、経常収支赤字のニュースなどでかなり認識されるようになってきましたが、原子力発電の代わりに火力発電に頼っていることで、燃料輸に年間で約4兆円も余分にかかるようになっています。これは、今回の消費増税による税収増に匹敵します。このおカネを節約できれば、被災者への賠償や電気料金の引き下げなどに充てることができます。

(関連ソース)
原発停止で13年度の燃料費3.6兆円増
消費税8%、税収増は4兆円強


原発停止のメリット
では、原発を停止しておくことのメリットは何でしょうか?

ザックリいえば、再稼働しないことのメリットは「安全」ということでしょう。しかし、動いている原発と止まっている原発の安全性の違いってどれほどなんでしょうか?

実のところ、判断できるだけの情報があまりないのですが、考えるべき3つの論点を以下あげます。

メルトダウンまでの余裕
まず、動いている状態から、被災等で制御不可能になると、すでに炉内水温は沸点を越しているので、数時間程度で冷却水が蒸発し、メルトダウンが始まるらしいです。一方、冷温停止状態であれば、冷却水が沸点に達するまで数日間は余裕があるらしい。。

しかし、ここで「らしい」とばかり言っているように、あまり確たるソースが出てきません。ゴゴの調べ方が悪いのかもしれませんが、個人のブログやはてななどのQAでやっとこうした「違い」について書かれたものを見る程度です。

(関連ソース)
原発は稼働中より停止した方が安全ですか

とはいえ、確かに、稼働状態と停止状態、それぞれで全電源喪失した場合の対応余裕度にそれなりの差があることは、理屈からして間違いなさそうです。

全電源喪失に対する対応策
そうすると、次にこうした制御不能になる可能性というのは、どれほどのものなのでしょうか?

福島の場合、「全電源喪失」という状態になり、そこからのリカバリーがうまくいかなかったことが事故の直接要因なのですが、そうした全電源喪失という事態や、そこへの対応策というものが、福島の事故をうけてどこまで進んでいるのかが良く分かりません。

ちなみに、「全電源喪失の場合も対策万全なのでもう福島のようなことは起こらない」と強く言ってしまうと、「じゃあやっぱり福島は完全に人災だよな」と、政府・東電の過失責任が改めて浮き彫りになってしまうので、この問題がイマイチはっきりしないのはそれを避けるためじゃないの?とゴゴは少し政府側の姿勢を疑っております。

ここは、福島の事故の原因と合わせ、隠すことなくはっきりさせるべき問題だと思います。

(関連ソース)
全電源喪失「津波が主因」、規制委報告
原発の全電源喪失、米は30年前に想定
全電源喪失を回避せよ 世界の原発、福島事故で動く

使用前燃料と使用済燃料の違い
もうひとつ分からないことがあります。それは、核燃料が使用前と使用後でどれほど扱いにくさが異なるか、ということです。

核燃料廃棄物の最終処理の難しさが再稼働反対の大きな論点になっているのですが、では、再稼働しないとしたときに、現在残っている核燃料はどうなるんでしょう?これは廃棄や処分がラクなんでしょうか?

まあ、原発を動かし続ければ処分しないといけない核物質の総量は増えるので、少なければマシという気もしますが、現在ある核燃料・廃棄物の処分が出来ないなら、程度差という気もします。この差異については全く見つけられませんでした。

まとめ
というわけで、再稼働をめぐるメリデメをならべると、
・再稼働すると、年4兆円(消費税3%分、あるいは1日100億円)の燃料費を削減できる。

これに対し、

・再稼働するよりは、停止状態にしておいた方が安全そう。しかし、リスクの違いがどれほどかはよく分からない。
・再稼働しないほうが核燃料・廃棄物の処分がどれくらいラクになるのかは不明。


ゴゴのこれまでの考えは、動いていようと止まっていようと原発は存在するのだから、結局はリスクは同じ、なら動かしておいた方がトク、というものでした。

しかし、こうして掘り下げてみると、リスク差についてはよく見えない中ではあるものの現に福島で事故は起こっており、とはいえ一方でいまは1日100億円も海外に垂れ流しているという状態も看過できるものではなく、判断が非常に難しい、というのがゴゴの現在の認識です。

(で、判断つかない中ですが、とりあえずは再稼働賛成派です。でももし、福島のような事故が千年に一度は起こりるかもしれませんと言われると、反対するかなあ。とはいえ100年安心レベルでも400兆円か。。)

このように考えると、脱原発を争点にあらそうなら、停止状態と稼働状態のリスク差や、全電源喪失に対する対応策の現状をキチンと開いた上で議論すべきだと思います。いまのままではまっとうな判断ができません。

だいたい原発問題は、あまりにもイデオロギー論が多すぎです。そりゃ確かに、安全考えれば原発はない方がいい。しかし、反対が通ったからといって問題がすぐに消えてなくなるわけではありませんよね。すでに原発も核廃棄物も存在し、その処分は賛成反対いずれにしろ考えないといけない、そして、そのためには莫大なおカネも必要なワケです。

なので、イデオロギーでの原発賛成/反対ではなく、すでに原発が存在していることを前提に、再稼働することとしないことについての「現時点からの差分」をリアリスティックに議論しないと、何の解決にもならないとゴゴは考えてます。

東京都知事選の争点が脱原発などというのは荒唐無稽な状況であり(前回言いましたが、そもそも「脱原発」なんて争点にもなりません)、その中でさらに低レベルな議論に振り回されないよう、政府としては一層の説明責任を、マスコミにはもう一歩突っ込んだ報道姿勢をお願いしたいところです。


ちなみに、もう締め切られてしまったようですが、日経ビジネスオンラインのこのアンケートは、なかなか良い切り口だったと思います。欲をいえば、もう少し上記論点に対して材料を示してほしかったですが。結果に注目しています。

東京都知事選、脱原発が争点だとか意味不明な展開になってきてますね。

何で都知事選で原発が争点になるねん?とつい関西弁で突っ込んでしまうわけ分からん状況ですが、脱原発を争点にしてくれた小泉さんは素晴らしいとか、脱原発こそ都知事選のテーマにふさわしいとか、何でもかんでも日本が悪いと叫び続ける某国を笑えないくらいの無節操ぶりに、もはやお笑いを見る気分で楽しもうと思っております。

というわけで、都知事選で脱原発を問うことには当然ながら全く意味を感じないゴゴですが、盛り上がっているテーマなので、脱原発という争点をちょいと考えてみましょう。

まず、「脱原発」が何を目標としているかという定義を考えてみましょう。これは、「原子力エネルギーに頼らない電力供給構造を実現すること」ということでいいですかね。この前提で、現存する原発の完全廃炉を目指している、という認識で間違っていないと思います。

しかし、脱原発といっても、原発再稼働反対という急進派と、数十年後の将来まで見すえて、エネルギー技術の進展にあわせてという現実派まで、そのスタンスには結構な幅があります。こうした幅を飲み込めば、「できるなら脱原発」という人が大多数じゃないですかね?福島の手のつけられない惨状を考えれば、それは自然なキモチだと思います。

つまり、脱原発というのは、ほぼ「キモチ」なんですよ。皆んなできればそうありたいよね、レベルの。しかし、フワッとしたキモチなんか争点なんかになりようはないわけで、本当の争点は、「再稼働に反対か、容認か」、これですよ。

こんな初歩的な論理的整理もせず、「脱原発が争点」ってことを、マスコミやら偉い人達が平気で語ってるのを見ると、「ボケか、もう日本に大学なんかいらんわ!」と言いたくなってくるくらいです。(それなりの大学に行ってた人達がこれじゃあね。。これだから文系はバカにされるワケですよ。)

さて、ゴゴログを愛読する理屈っぽいみなさんは、これからもし脱原発をテーマに議論する機会あれば(あまりないよなあ)、「それで再稼働に賛成か、反対か、どうやねん?」とキッチリ詰めていただければ幸いです。

で、再稼働を争点にしたところで、何の材料をもって賛成か反対か、というところからがホントは本題なんですが、前置きがながくなったので、次回に続きます。

あなたは原発再稼働に賛成ですか?反対ですか?、それはなぜかとともに、ぜひ次回までに考えておいてみてください。

結構シビアな問題で、ゴゴは以前は単純に賛成派でしたが、最近悩んでおります。。

その1その2を読む)
一連の「主観シリーズ」の3回目(完結編)です。

前回記事まででは、以下について述べてきました。
・最近ホットな「デザイン」に関わる人たちと話す中で、客観的な正しさよりも、個人としてモノゴトをどう見るかという主観の強さが、新しい価値創造を行っていく中でもっと必要になってくると思われ

・主観の強さというのは、単に「私は~が好き/思う」というレベルにとどまらず、なぜそう感じる/思うのかをもう一段掘り下げて、そう感じたり思っていることの土台になっている、個人の根源的な価値観まで掘り下げられていること。

・そうした「主観の磨き上げ」ためには、「批評」という行為が有効であること

ここまでで、「主観が大切」という考え方もあるんだなとか、「主観といっても、好き/思うだけではないレベルがあるのだな」ということは受け止めてもらえるのではないかと思いますが、では、そうした強い主観が、本当にイノベーションのために欠かせないのかという点については、まだよくわからない、というところかと思います。


世の中は客観的な正しさで出来ているのか? 
皆さん、上記のとおり問われたらどう答えますか?ゴゴの好きな哲学の世界に寄り道しますが、ちょっと考えてみてください。西洋哲学は、ギリシャ哲学における「世界は何で出来ているのか?(火・水・数・・・)」という思索から始まり、この世の中の事象を成立させている決定的な原因(=真理)を探ろうとしてきました。しかし、この考え方を突き詰めていくと、人間の運命も何か(例えば、神)によってあらかじめ決定されている、という考え方に行きつきます。

しかし、心ある人間として、すべてが運命的に決められているなんていう考え方はどうも気に食わない。やはり、人間たるもの自らの力で人生を切り開いていくのだ、という考え方の方がすっきりするし、生きやすい。ただ、こうした自己中心の考え方もつきつめていくと、世の中に存在する「客観」と自らの「主観」が対立し、ひどくなると世の中のすべてが疑わしいという独善的な懐疑主義やニヒリズムに陥る危険性があります。

哲学の世界では、こうした客観的真理が存在するのか・しないのかが大きなテーマとなって長い間いろんな議論・思想が生まれてきたのですが、 フッサールという哲学者は、「間主観性」という考え方でこの対立的問題を解決しようとしました。それは慨して言えば、人間の認識の外にあらかじめ客観的真理が存在するのではなく、個々の主観同士が同じモノをみて、そこに共通の了解が産まれた時にそれが真理となる、というという考え方です。(自然科学的な法則も、人間の認識によって自然現象に秩序づけているだけ、という考え方。)

つまり、フッサール哲学(現象学)では、自らの主体的な自らの在り様(主観)を前提としながらも、懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく、他者と共有できる客観的世界が成立することを示したのです。この考え方は、非常に面白いと思いませんか?世の中は「客観的な正しさ」で出来ているのではなく、「人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてただ作り出されるもの」(竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」p.68)なのです。

そう考えれば、自分のやろうとしていることが正しいのか、本当にあっているのかを悩むことには実はまったく意味がなくなります。よく、ベンチャースピリットの一つとして、「パラノイアだけが生き残る」(アンディ・グローブ)が引き合いにだされますが、それは、「本当がどうかわからない事を、恐怖心を振り切ってトライする」というイメージではなく、自分が「それは本当である/世の中にとっての普遍的価値がある」と心の底から信じることを、他者からの共通理解を得られるまでやっていく、ということのように思われます。


イノベーション時代における「主観の強さ」の意味
もはやあまり説明する必要もない気もしますが、上記で述べたように、世の中にイノベーションを起こそうとするような試みにおいては、世の中の常識ではなくても、「それは本当である/普遍的価値がある」という確信が自らの中に存在していなくては何も始まりません。

しかも、自らの中の確信は、「間主観性」を引き合いにだせば、世の中の他者からの共通理解を得て初めて意味ある真実となるわけですから、これをきちんと他者に説明をして、納得を引き出していかなければなりません。そのためには、「私は~が好きだ/思う」レベルでは、未だ世の中の常識ではない「未来の真実」を、他人に理解させることもできないはずです。

なぜそれが好きか、そう思うかを自らの価値観まで掘り下げて理解していないと、他人に説明することも難しいでしょうし、どちらにしても理解されにくい新しい価値観を、他人に拒否されつづけてもあきらめることなく試し続けるためには、自分の中での明快なロジックとしてを伴っての「それが大切だ」という、「強い主観」が必要になります。

しかしながら、前回述べたように、自らの主観をきちんと掘り下げて語れる日本人は、あくまでもゴゴの個人的感覚ではあるものの、非常に少ないと思います。でも、だからこそ、これからの時代を切り開いて行こうとする若者にとっては、「強い主観」を磨くことの価値が非常に高まってくるとゴゴは思うわけです。

ロジカルシンキング的なスキルはもちろん大切ですが、それでもって客観的な正しさのみを検証することに埋没することなく、自分は世界をどう捉えているのかといった物の見方や、自分が大切に思うことの根源となる価値観を掘り下げていくような「主観の磨き上げ」に投資していくことは、イノベーティブなチャレンジに挑戦しようとする人にとって、絶対これからの時代で効いてきますよ!

 
P.S.
これを書いてる本日は2013年の大晦日。
(買いだしやらの年末家庭進行のさながら、早朝起きだして書いてます。。我ながら何してんだか。) 

強い主観にあふれてイノベーティブな可能性に満ちた日本の未来に思いをはせながら・・・皆様よいお年を!



※今回の参考図書



一連の「主観論」の途中ですが、「安倍総理の靖国神社参拝は今後どのような影響を及ぼすか?」というテーマを某所で知人からいただき、少々考えるところがあったので、今回は話題の「靖国参拝問題」の本質を考えます。

まずは、いつも斜め上で「いいネタ」を提供してくれる朝日新聞から。

中韓メディア「感情踏みにじる」 靖国参拝、米紙も懸念


いつもの感じですね。感情踏みにじるというならば、竹島を不法占領してたり、尖閣は俺のものとか色々勝手されてる日本人の感情はどうなんでしょうね?靖国神社の位置づけがまあいろいろ議論あるのは分かりますが、総理を務める一個人が神社にいったことで感情を踏みにじられたから問題だと。。なるほど。日本の中にも同じようなことを言って勝手に傷ついたり騒いだりしている、ちょっとよく理解できないヒマな人達もたくさんいるでしょうし、感情論を言い始めたらキリがありません。ま、どうでもいい話です。

さて次。ヤフーニュースですが、もとはAFP時事の配信記事です。

安倍首相の靖国参拝、米国は「心から失望」 分析


今回の件、確かにアメリカ政府が、「失望」という強いメッセージを出したことについては気になります。どのような問題意識をもってのことのことなんでしょう?

上記記事中、下記のような見方が紹介されていました。
***
「防衛分野での日米協力など米国が進めようとしている計画を前進させようとしている中で行った今回の参拝を取り巻く状況は、小泉氏の時とは異なるとグリーン氏は指摘する。

『中国は、日米同盟関係強化に向けたあらゆる動きを妨害するだろう。しかし、日本が一連の変革を進める中、米国としては韓国にはこちら側についてもらう必要がある」
***
 
なるほど、この見方であればアメリカ政府が問題視することは理解できます。日本から見てると中韓は同じように見えますが、アメリカから見ると極東地域防衛の観点で、中韓はステークホルダーだとして別だという視点は面白いですし、重要ですね。(確かに、話題の「テキサス親父」もSpa!のインタビューで、日米韓は結束を強めなければいけない、と言ってます。)

地域防衛連携の観点で考えれば、南スーダンで韓国軍に弾薬援助したのは、イマイチな朴政権に対する韓国世論のゆさぶりという面も含めてなかなかいい動きだったと思いますが、靖国参拝問題がきっかけか、韓国軍側から弾薬を返すと態度を硬化させてしまったのは、まったく勿体ないハナシです。その意味では、今回の靖国参拝は「問題」ですね。

しかし、上記はあくまでも一つの見方ですから、実際のところ、アメリカ政府は何を問題視しているんでしょうね?政府でもマスコミでもいいですが、きちんとコミュニケーションして、本質をきちんと把握してほしいところです。


というわけで、ゴゴ的にはフワッとしたよくわからない感情論みたいな趣旨での靖国参拝批判には何の意味があるのかと全く興味ありませんし、中国・韓国との関係性が悪いのは元からのところもあるのでイマサラと言う感じですが、アメリカをはじめとする第三国が、今回の件の実際的な「問題」を何だと考えているか、その核心はしっかり掴んでおくべきだと思います。

(補足)
靖国や慰安婦問題など、欧米からみて日本が右傾化しているようにみられてイメージ的に損をするといった趣旨の話については、それはイメージの問題ですから、きちんと対外広報戦略をすすめていくほかありませんね。

その際、靖国神社については、行かないようにするのではなく、むしろタイミングを見ながら淡々と参拝を続けることで慣れさせてしまう(off issue化する)がいいと思いますけどね。 戦没者を悼んで参拝すること自体がなんでこんなに大問題になるのか、そうした異常な事態自体が、一つの「問題」だと思います。アホくさ。

前回記事の続きです。前回、新しい価値を生み出していくことが求められる時代においては、客観性よりも主観の方が重要になる、というハナシをしていました。では、主観とはそもそもいったい何なのか、どうすれば「主観を磨く」ことができるのか、ということを今回の記事では掘り下げます。

主観とは何なのか
さてまず、主観、主観的であるというのは、どういうことでしょうか?普通に考えて、主観というのは、「私は~と思う、感じる」という個人的な認知や感覚です。他方で、客観というのは、世の中の真実・真理や常識に照らし合わせて、誰からみても多くは正解・妥当とされるであろうことをより分ける判断です。では、主観的な「私は~と思う、感じる」という感覚は、いったいどこからやってくるのでしょうか?

例えば、ゴゴは一時、ジャズを好んで聞いていました。「私はジャズが好きです」ということですね。じゃあ、なぜジャズが好きなのか?「好きだと感じたんだから好きなんだよ」、こういうオレ様ルール的な態度(※)から一歩進んで考えてみます。そうすると、「アドリブ効かせたり、少しテンポやコードをずらしたりといった、ルールにとらわれない自由なスタイルや偶発性、そこから生まれる感情的なエネルギーに魅力を感じる」と、一歩掘り下げた説明もできます。つまり、ゴゴの主観は、「自由でルールが決まっていないこと、感情的なこと」に魅力を感じており、その一つの表れとして、ジャズを好んでいる、と言えます。

(※最近、「ヤンキー消費」がちょっとしたホットコンセプトになっているようですが、ヤンキー文化にありがちな、こうしたオレ様ルール的な考え方も拡大していくのだとすると、さらに日本の先行きが心配になってきます。。)

しかし、同じく「ジャズが好きです」という別の人に、同じようになぜかを掘り下げて聞いた場合、例えば、「ジャズの持つ多彩でメカニカルなコード体系や、理知的な雰囲気が快い」と答える人もいるかもしれません。この人は、ゴゴとは違うこの人なりの主観でジャズの魅力を捉えています。

つまり、主観というのは、その人固有の価値観によって、自分の外側に存在する対象の良い-わるいや、美しい-美しくないといった価値判断をする姿勢であり、「主体的なモノゴトの捉え方そのもの」といえます。


どのように「主観を磨く」のか-批評するということ
前段のように見ると、主観的といっても、「僕はジャズがクールだと思う」「私はクラシックが好きです」「俺はヒップホップが好きなんだよ」という、「いわゆる主観的」な態度から、一歩掘り下げた在り様があることが分かったかと思います。では、客観的な論拠なく、なんとなく自らがこう思う、こう感じるということは誰にでもあると思いますが、それがどこからきているのか、どんな価値観やコンセプトに基づいているのかを説明できるでしょうか?

非常に個人的な感覚ですが、自らの価値観を掘り下げて主観を語れる日本人は、かなり少ないように思います。モノゴトの考え方や感じ方を掘り下げていく行為というのはまさに哲学的な行為ですが、こうした「正解のない」ことを突き詰めて考える訓練は、日本の通常教育の中ではおこなわれていません。もちろん会社に入ってもそんなことは求められません。すでに世の中に存在する知識、データ、枠組みを組み合わせて、正解を出すことのみを求めてきた結果ですね。(それはそれで、時代的な合理性があったと思いますが。)

しかし、こうした価値観のベースが確立されていない「主観」というのは、非常に脆いものです。ただただ「僕はジャズがクールだと思う」「俺はヒップホップが好きなんだよ」なんて言い争うのはさすがに非建設的ですし、それ以上語るコトバをもたなければ、主観的な「好み」は、個人的な趣味の範疇として、内心にとどめ置くことが妥当になってしまいます。さらにひどい場合、個人の中に主体的な価値軸が育たないために、他人の評価や世の中の流行にのることでしか自らの好みをカタチ作れないとなれば、画一的で表面的な社会集団やマーケットしか生まれない=イノベーションが起きにくい、という状況につながってしまうとゴゴは考えます。

これが、前回記事の中でロンドンのデザインファームの知人から言われた、「日本人は主観的な部分が弱い」ということにつながっているのだと思います。ではどうすれば主観を磨けるかと言えば、すでに上記に見たように、自分が思ったり感じたりすることの核心的な根っこを、きちんとコトバでとらえる訓練をするということです。これは、さまざまな事象に対して、「批評」を行うということで実践できます。

批評ということは、なんでもかんでも批判することと思われがちですが、それは違います。ゴゴが愛読する「哲学は何の役に立つのか」(西研、佐藤幹夫)から、以下の一節を紹介します。

「マンガでも映画でもいいのですが、なぜかあの主人公はカッコいいよ、こっちはダサいよ、と感じる。じゃあその『カッコいい』をどんな言葉にできるか。言葉でいうためには、自分の感触に向き合ってそれを見つめなおす必要がある。そして、それを他人に伝えて対話していく。そのことによって、自分の価値観を自覚的に検証して、鍛えていくことができる。」(同書P.86)

このゴゴログも、こうして考えると自分の主観を鍛えるためにやっているようなもんです。


こうした主観の強さが、どのようにイノベーションを生み出すことにつながっていくのかという点についてまで書きたかったのですが、またまた長くなってしまうので、「次回に続く」ということで。





「客観的に考えろ!」・・・みなさん、一度はこういうことを言われたり、本などで学んだりしたことないですか?多分、普通に人生を送っていると、学生生活や仕事の中で、主観よりも客観性を問われることが圧倒が多いんじゃないかと思います。

極論すれば、客観的にモノゴトを見られる能力には価値があり、「アンタが自分で考えている主観なんてどうでもいい」、というのが、一般的な価値観ではないでしょうか。ところが、先週とある2つの出会いの中で、これからの時代、むしろ客観性よりも主観性が大切になってくるであろうという気付きを得る機会がありました。


一つは、東大ischoolで行われたワークショップに参加した時の話です。ischoolというのは、イノベーションを促す人材の育成を目指して、デザイン思考的なアプローチで教育に取り組んでいるプログラムなのですが、このワークショップの中で、「ワトソン君」の話題が紹介されていました。

AIのワトソン君、アメリカのクイズ番組で優勝したハナシはこちら

このワトソン君、クイズ番組で普通に口語で話される質問を理解し、人間と競って答えていくのですが、ぶっちぎりで優勝したそうです。このハナシ、ゴゴはまったく知らなかったのですが、AIはここまで来ているのですね。
(ちょうど前回記事でAIの話を扱ったところでもあったので、不思議にタイミングがつながるものだと。。。)

iSchool横田ディレクターの予想としては、「デザインする」という行為もある程度の思考フレーム・ステップが見えてきているので、2050年頃には、ある程度創造的な活動も含め、コンピューターが人間よりも優れて行える時代がくるだろう、逆に人間に価値が残るのは、何を作っていきたいかという「主体的な意思」ではないか、という話しでした。

そしてもう一つの出会いは、ロンドンのデザインファームをベースに活動する知人が日本に出張してきたタイミングで会って話していた時に出てきた、「日本人は主観的なところが弱いように思う」、というハナシです。

これがまさに今回のテーマを書く大きなきっかけになっているのですが、彼曰く、新しい価値を生み出していくプロセスにおいては、組織や個人が持つ何らかの根本的かつ固有の価値観やコンセプトを前面に出してエッジを効かせなければならない、しかし、こうした「主観的な」パワーがヨーロッパに比べて日本は弱く感じる、ということでした。

ヨーロッパはどうなのかと聞いてみると、個人が自らの好みを大切にしていて、知名度や他者の評価などにあまりこだわらず自分なりに楽しんでいること、またその分個々人の好みが分散しているために、多様なもの・新しいものが受け入れられる土壌やマーケットの厚みがある、とのこと。

一方で日本はどうかと考えると、まさに冒頭で上げたように、「客観的に見てどうなんだ?」的な、すでに確立されたものの見方や価値観に照らして、自分の考え方があっている、間違っている、といったような思考に知らず知らず染まってしまっているように思います。

客観性というのは、それはそれで大切なことは間違いないですが、それでは主観はどうするんだ?というところには、今まで全く光があたっていなかったと思います。

正しいことを間違えないように遂行すること、そういう時代であれば、確かに客観性一本槍でも良かったのでしょう。しかし、新しい価値を生み出していく中で、「主観的な」価値観・コンセプトが求められ、一方で誰が見ても正しい「客観的なこと」は、どんどんAIがとって変わっていく時代がすぐそこにやってきているとしたら・・・?どう考えても、主観的なモノの考え方がもっともっと求められるようになってくるはずです。

じゃあ、「俺はあれが好き、これは好みじゃない!」なんて、「ユニークな個性(笑)」をぶちまけ続けることが、主観を磨くことにつながるのか?いえいえ、ゴゴログはそんな浅くないっすよ、と行きたいのですが、ちょっと長くなってしまうので、そこは次回に続く、ということで。

*2015.12.24 一部修正・加筆

「コンピューターが人間の脳を超える日が近い将来やってくる」なんて議論を最近耳にすることがあります。近年続くコンピューターテクノロジーの発達や、統計学をベースにしたビッグデータ解析による予測モデルの発展などを背景として、AI(人口知能)が、近い将来人類の思考能力を超える日がくる、というハナシです。

「2018年頃にはコンピュータ・チップの容量が人間の脳細胞の容量を超える」(孫正義)

シンギュラリティ -約30年後の「何が起こるかわからない1日

ウィキペディア:技術的特異点(Singularity, シンギュラリティー)


さて、本当にそんな日はやってくるのか?

知人がFBでシェアしていたブログ記事(「技術的特異点と仏教的生命観の接点」)に触発されてコメントしたことをベースに、今回は「コンピューターが人間の脳を超える日」なんてものはやってこないことを、哲学的に論証してみたく思います。



上記の記事の中で、「仏教的生命観には、人間には個としての自分と全体としての自分という2つの側面がある」ということが触れられており、これは面白いなと思いました。いきなり結論めいた話になりますが、「コンピューターが人間の脳を超える日なんて来ない」とタイトルで言っているのは、まさに「全」と「個」の関係で、「全なくして個はない」という考えに基づいています。

どういうことかと言うと、引用記事の中での全と個の捉え方とは少し違うかもしれませんが、個人の思考というのは、それ自体が独立して存在しているのではなく、自分の周囲の世界との関係性で生まれてきているとゴゴは考えています。つまり、全と個は本当は切り離せないものだということです。(※)


ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし、何も見えず、何も聞こえず、何の情報も入ってこない、つまり自分の外側に何もない世界に入ったとします。さて、ずっとそこで1年間住み続けたとして、あなたはそこでどんな考えを生みだせるでしょうか?おそらく、過去の記憶を思い出す以外、新しいことは何一つ考えられないと思います。(最初は記憶をベースに多少は新しい何かを考えられるかもしれませんけど。)それ以上に、あなたはもはや「個」というものを失っていると思います。

こう考えると、私たちが「個」と言っているもの、それは主体的な認知や思考と言い換えられると思いますが、それは自分の外的な世界を認知し、その外的な世界との関係性の中で「個」というものを考えているにすぎないと言えます。つまり、「個」はそれのみで独立しては存在しないものである、ということです。

しかし、シンギュラリティというのは、個を独立したものと捉えて、完全無欠な知性をプログラムで作り出すという、ある意味西洋的な思想を前提にした議論だと思います。(西洋思想でも、ネットテクノロジーの世界以外では、こんなピュアな個のあり方は修正されてきていると思いますが)


一方で生身の人間の思考能力の面白い点は、過去の経験や外部との関係性から、そして生きていることに起因するさまざまな苦しみから、必ず何かしら認識に歪みを持っているところだと思います。場合によってはそれが誤認や妄想となって判断の質を低下させますが、一方でそうした認識の歪みが、人とは異なる新しい物の見方や芸術的な発想につながっており、そこに人間の創造性の源があるのだとゴゴは考えています。

そう考えると、個々に異なる認識の歪みも含めた全人類の思考能力を超越した知性というのは、人間が持ちうる全ての認識パターンを把握した上で、そのどれよりも優れた認識レンズを搭載する、あるいは1人の人間では持ち得ないほどの多様な認識レンズを使い分けるものではならないはずです。

そしてそうした個の知性は外部との関係性から生まれてくるわけですから、人間の思考能力をはるかに越えたAIを作り出すためには、究極的に言えば開発者は先ずこの世界のあり様すべてを完全に理解し、その世界との関係性で生まれる得る人間の思考のパターンもすべて解明した上で、それよりも優れた思考・認識構造をコード化してAIに搭載する、あるいはAIが自ら獲得する学習アルゴリズムを開発することが必要になります。これができれば、あとは莫大な計算力で完全に人間の能力を完全に超越できます。


しかし、世界の全てと、その中で生まれる思考のパターンを理解し尽くすというのは、それこそ神様でなくては不可能です。なので、AIが人類を超えることはない、という結論に至ります。(以上、証明終わり。)

・・・とまあ乱暴なロジックでキチンとした証明にはなってないわけですが(ここまで書いといてそれかよ!というツッコミも聞こえてきそうですがw)、人間の知性というのは一体何なのか?という哲学的命題が完全に解明されない限り、シンギュラリティなんざチャンチャラおかしいわ、というのが個人的な見方です。そして多分人間が人間を分かりつくす日なんてやってこないでしょう。これは単に希望的観測にしかすぎませんけど。

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最近、Techな世界では、昔の「人間が自然を管理する」的な思考を繰り返しているような気がします。それはある意味やんちゃで「何がでてくるか?」と面白いのですが、一方でこうした「全と個」を考えるといったような、人文的思想が欠落しているように感じます。そうした偏った物の考え方では、どこかで破綻するはずです。

ちなみに、シンギュラリティの議論の中で懸念されているように、AIが偏った思考パターンと能力でもって世界に混乱をもたらすことはあるかもしれませんが、そうなればまさに、AIが人間の思考よりも劣っていることの証明でもあるかと思います。

かといってAI開発に否定的なワケではなくて、むしろAI開発の過程で人間の知性についての理解が進めば、人工知能のみならず人類そのものにとっても有益な研究成果になるとむしろ期待しているんですけどね。。

いずれにしろ、AIが人類全体の思考能力を完全に超えるなんて日はたぶん永遠にやってこないでしょう、というハナシでした。


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