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ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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ビットコイン、Mt.Goxのトラブルで朝のワイドショーでも取り上げられるくらいのポピュラーな話題になってますね。

ビットコイン問題については、昨年の記事で終わりにしたはずでしたが、今回の事件を契機にビットコインがクローズアップされた結果、「ビットコインなんて詐欺みたいなもんでしょ」vs「ビットコインは価値がある、今回の問題は部分的な話だ」という意見対立がみられ、多くの人にとっては何が本当やらよくわからないと思いますので、それぞれの主張のポイントを簡単に整理しつつ、ビットコインと言う存在の矛盾について説明してみます。

(ビットコインについて詳しく理解したい方は、同じビットコインカテゴリの過去記事をご参照ください。)


1.「取引手段」としてのビットコインの価値 (技術的側面)
これは技術的思想としては良くできていて、「ブロックチェーンとプルーフオブワーク」という設計による、不正な使用の回避やビットコインの生成プロセスにおける「信頼性」の構築の仕方は、評価に値すると思います。IT系の人など、ビットコインを認める人たちは、ほぼこの点でビットコインを信用していると思います。


2.「貨幣(通貨)」としてのビットコインの価値 (貨幣論の側面)
こちらについてはまったく噴飯モノで、ビットコインに「貨幣的価値」はありません。貨幣の価値とは、大きく言えば「価値の信頼性(価格の安定性)」と、「流通範囲の広さ(いつでもどこでも使える)」につきます。まとめて言えば、どこに行っても同じ値段のものを買える、ということです。この点、ビットコインはそのどちらも満たしません。


3.ビットコインの矛盾点
ビットコインは、「技術的に取引上の信頼性が高く、それゆえに人々に信用されるならば、立派な貨幣である」、というのがIT派の人々の主張かと思いますが、取引上の「信頼性」と、貨幣としての「信用性」はまったく別のモノです。

前者は「ニセモノではない」ことを言っており、後者は「一定の価値に値する」ことを言っていますが、信頼と信用が概念的になんとなく似ているために、まぜこぜに理解されているところが、それぞれの主張が擦り合わない理由かと思われます。

たとえばここに1枚の珍しい切手があり、絶対にニセモノではないという保証があるとします。しかしだからといってこれが10万円の価値の通貨です、と言われても、それは一般的に認められないですよね。珍しい切手が好きであれば10万円出して交換してもいいかもしれませんが、興味がなければそれで10万円相当のモノは渡せないですよね。珍しい切手という「信頼性」はあるものの、価値の「信用性」はない、という状態です。

ビットコインはほぼそういったものです。ビットコインというデータのカタマリが好きならば、10万円だろうとなんだろうと払うのは勝手ですが、それが希少であるということとニセモノではないという「信頼性」だけで、世の中的に10万円の価値があると主張するのは無理があります。ビットコインは貨幣ではなく、いつでもどこでも使える保障はないのですから。

(ちなみに、普通の紙幣も「国家の信用力」というあいまいなものを背景にして発行されているから同じ、という意見をみかけますが、国には徴税権という強力な権限が担保にあることをお忘れなく。)


4.結論
というわけで、確かにMt. Goxの問題は一組織の問題であってビットコインシステム全体の問題ではありません。ビットコインそのものは「単なる詐欺」と切り捨てるには、少なくとも技術的にまっとうな存在であると思われます。

しかし、ビットコインはそうした技術的な側面に頼り切って、そもそもの「貨幣」としての信用性を担保する仕組みはない(というか出発点としてあえて否定している)という点で、信用リスクに対する脆弱さを抱えています。

なので、今回の事件は、技術的側面では関係のない組織運営の問題と言えるかもしれませんが、信用性の観点でみれば、そもそもそ信用根源のあいまいなビットコインという存在に致命的な問題を引き起こしたというのがゴゴの見方です。

今回の問題をきっかけに新規の取引参加者が減ってしまえば、ビットコインの価格はどこまでも落ちていくだろうといのがゴゴの個人的な見立てです。そもそもが、1ビットコインがいくらかという相場観を守る信用度合が何もないのですから、買う人がいなくなればフリーフォールになるのは当然のことかと。ま、あくまでも個人の予測ですが。
 
以上、ビットコイン問題を理解する上での一助になれば。
 

前回、脱原発かどうかではなくて、再稼働に反対なのか、それとも賛成・容認なのかが本当の争点だと書きました。

で、賛成・反対どちらをとるか、その理由はなぜかを考えてみてください、としていましたが、皆さんいかがでしょうか。

この問題をきちんと考えるためには、原発が停止状態にあることと稼働状態にあることの「差異」を理解していないといけません。メリデメとかプロコンとかってやつです。

まず前提として、普通に止まっている原発だろうと、いますでに溜まっている放射性廃棄物や原子炉の完全処分は、「脱原発」と叫んだところですぐには実現できないことなので、再稼働しようとしまいと、原発はこの先何十年も存在し続ける、ということは押さえておくべき事実です。

さてでは、再稼働したときと止めているとき、そのメリットデメリットは何でしょうか?

再稼働のメリット
まず、再稼働した場合のメリットは、輸入燃料費を下げられることです。最近、経常収支赤字のニュースなどでかなり認識されるようになってきましたが、原子力発電の代わりに火力発電に頼っていることで、燃料輸に年間で約4兆円も余分にかかるようになっています。これは、今回の消費増税による税収増に匹敵します。このおカネを節約できれば、被災者への賠償や電気料金の引き下げなどに充てることができます。

(関連ソース)
原発停止で13年度の燃料費3.6兆円増
消費税8%、税収増は4兆円強


原発停止のメリット
では、原発を停止しておくことのメリットは何でしょうか?

ザックリいえば、再稼働しないことのメリットは「安全」ということでしょう。しかし、動いている原発と止まっている原発の安全性の違いってどれほどなんでしょうか?

実のところ、判断できるだけの情報があまりないのですが、考えるべき3つの論点を以下あげます。

メルトダウンまでの余裕
まず、動いている状態から、被災等で制御不可能になると、すでに炉内水温は沸点を越しているので、数時間程度で冷却水が蒸発し、メルトダウンが始まるらしいです。一方、冷温停止状態であれば、冷却水が沸点に達するまで数日間は余裕があるらしい。。

しかし、ここで「らしい」とばかり言っているように、あまり確たるソースが出てきません。ゴゴの調べ方が悪いのかもしれませんが、個人のブログやはてななどのQAでやっとこうした「違い」について書かれたものを見る程度です。

(関連ソース)
原発は稼働中より停止した方が安全ですか

とはいえ、確かに、稼働状態と停止状態、それぞれで全電源喪失した場合の対応余裕度にそれなりの差があることは、理屈からして間違いなさそうです。

全電源喪失に対する対応策
そうすると、次にこうした制御不能になる可能性というのは、どれほどのものなのでしょうか?

福島の場合、「全電源喪失」という状態になり、そこからのリカバリーがうまくいかなかったことが事故の直接要因なのですが、そうした全電源喪失という事態や、そこへの対応策というものが、福島の事故をうけてどこまで進んでいるのかが良く分かりません。

ちなみに、「全電源喪失の場合も対策万全なのでもう福島のようなことは起こらない」と強く言ってしまうと、「じゃあやっぱり福島は完全に人災だよな」と、政府・東電の過失責任が改めて浮き彫りになってしまうので、この問題がイマイチはっきりしないのはそれを避けるためじゃないの?とゴゴは少し政府側の姿勢を疑っております。

ここは、福島の事故の原因と合わせ、隠すことなくはっきりさせるべき問題だと思います。

(関連ソース)
全電源喪失「津波が主因」、規制委報告
原発の全電源喪失、米は30年前に想定
全電源喪失を回避せよ 世界の原発、福島事故で動く

使用前燃料と使用済燃料の違い
もうひとつ分からないことがあります。それは、核燃料が使用前と使用後でどれほど扱いにくさが異なるか、ということです。

核燃料廃棄物の最終処理の難しさが再稼働反対の大きな論点になっているのですが、では、再稼働しないとしたときに、現在残っている核燃料はどうなるんでしょう?これは廃棄や処分がラクなんでしょうか?

まあ、原発を動かし続ければ処分しないといけない核物質の総量は増えるので、少なければマシという気もしますが、現在ある核燃料・廃棄物の処分が出来ないなら、程度差という気もします。この差異については全く見つけられませんでした。

まとめ
というわけで、再稼働をめぐるメリデメをならべると、
・再稼働すると、年4兆円(消費税3%分、あるいは1日100億円)の燃料費を削減できる。

これに対し、

・再稼働するよりは、停止状態にしておいた方が安全そう。しかし、リスクの違いがどれほどかはよく分からない。
・再稼働しないほうが核燃料・廃棄物の処分がどれくらいラクになるのかは不明。


ゴゴのこれまでの考えは、動いていようと止まっていようと原発は存在するのだから、結局はリスクは同じ、なら動かしておいた方がトク、というものでした。

しかし、こうして掘り下げてみると、リスク差についてはよく見えない中ではあるものの現に福島で事故は起こっており、とはいえ一方でいまは1日100億円も海外に垂れ流しているという状態も看過できるものではなく、判断が非常に難しい、というのがゴゴの現在の認識です。

(で、判断つかない中ですが、とりあえずは再稼働賛成派です。でももし、福島のような事故が千年に一度は起こりるかもしれませんと言われると、反対するかなあ。とはいえ100年安心レベルでも400兆円か。。)

このように考えると、脱原発を争点にあらそうなら、停止状態と稼働状態のリスク差や、全電源喪失に対する対応策の現状をキチンと開いた上で議論すべきだと思います。いまのままではまっとうな判断ができません。

だいたい原発問題は、あまりにもイデオロギー論が多すぎです。そりゃ確かに、安全考えれば原発はない方がいい。しかし、反対が通ったからといって問題がすぐに消えてなくなるわけではありませんよね。すでに原発も核廃棄物も存在し、その処分は賛成反対いずれにしろ考えないといけない、そして、そのためには莫大なおカネも必要なワケです。

なので、イデオロギーでの原発賛成/反対ではなく、すでに原発が存在していることを前提に、再稼働することとしないことについての「現時点からの差分」をリアリスティックに議論しないと、何の解決にもならないとゴゴは考えてます。

東京都知事選の争点が脱原発などというのは荒唐無稽な状況であり(前回言いましたが、そもそも「脱原発」なんて争点にもなりません)、その中でさらに低レベルな議論に振り回されないよう、政府としては一層の説明責任を、マスコミにはもう一歩突っ込んだ報道姿勢をお願いしたいところです。


ちなみに、もう締め切られてしまったようですが、日経ビジネスオンラインのこのアンケートは、なかなか良い切り口だったと思います。欲をいえば、もう少し上記論点に対して材料を示してほしかったですが。結果に注目しています。

東京都知事選、脱原発が争点だとか意味不明な展開になってきてますね。

何で都知事選で原発が争点になるねん?とつい関西弁で突っ込んでしまうわけ分からん状況ですが、脱原発を争点にしてくれた小泉さんは素晴らしいとか、脱原発こそ都知事選のテーマにふさわしいとか、何でもかんでも日本が悪いと叫び続ける某国を笑えないくらいの無節操ぶりに、もはやお笑いを見る気分で楽しもうと思っております。

というわけで、都知事選で脱原発を問うことには当然ながら全く意味を感じないゴゴですが、盛り上がっているテーマなので、脱原発という争点をちょいと考えてみましょう。

まず、「脱原発」が何を目標としているかという定義を考えてみましょう。これは、「原子力エネルギーに頼らない電力供給構造を実現すること」ということでいいですかね。この前提で、現存する原発の完全廃炉を目指している、という認識で間違っていないと思います。

しかし、脱原発といっても、原発再稼働反対という急進派と、数十年後の将来まで見すえて、エネルギー技術の進展にあわせてという現実派まで、そのスタンスには結構な幅があります。こうした幅を飲み込めば、「できるなら脱原発」という人が大多数じゃないですかね?福島の手のつけられない惨状を考えれば、それは自然なキモチだと思います。

つまり、脱原発というのは、ほぼ「キモチ」なんですよ。皆んなできればそうありたいよね、レベルの。しかし、フワッとしたキモチなんか争点なんかになりようはないわけで、本当の争点は、「再稼働に反対か、容認か」、これですよ。

こんな初歩的な論理的整理もせず、「脱原発が争点」ってことを、マスコミやら偉い人達が平気で語ってるのを見ると、「ボケか、もう日本に大学なんかいらんわ!」と言いたくなってくるくらいです。(それなりの大学に行ってた人達がこれじゃあね。。これだから文系はバカにされるワケですよ。)

さて、ゴゴログを愛読する理屈っぽいみなさんは、これからもし脱原発をテーマに議論する機会あれば(あまりないよなあ)、「それで再稼働に賛成か、反対か、どうやねん?」とキッチリ詰めていただければ幸いです。

で、再稼働を争点にしたところで、何の材料をもって賛成か反対か、というところからがホントは本題なんですが、前置きがながくなったので、次回に続きます。

あなたは原発再稼働に賛成ですか?反対ですか?、それはなぜかとともに、ぜひ次回までに考えておいてみてください。

結構シビアな問題で、ゴゴは以前は単純に賛成派でしたが、最近悩んでおります。。

その1その2を読む)
一連の「主観シリーズ」の3回目(完結編)です。

前回記事まででは、以下について述べてきました。
・最近ホットな「デザイン」に関わる人たちと話す中で、客観的な正しさよりも、個人としてモノゴトをどう見るかという主観の強さが、新しい価値創造を行っていく中でもっと必要になってくると思われ

・主観の強さというのは、単に「私は~が好き/思う」というレベルにとどまらず、なぜそう感じる/思うのかをもう一段掘り下げて、そう感じたり思っていることの土台になっている、個人の根源的な価値観まで掘り下げられていること。

・そうした「主観の磨き上げ」ためには、「批評」という行為が有効であること

ここまでで、「主観が大切」という考え方もあるんだなとか、「主観といっても、好き/思うだけではないレベルがあるのだな」ということは受け止めてもらえるのではないかと思いますが、では、そうした強い主観が、本当にイノベーションのために欠かせないのかという点については、まだよくわからない、というところかと思います。


世の中は客観的な正しさで出来ているのか? 
皆さん、上記のとおり問われたらどう答えますか?ゴゴの好きな哲学の世界に寄り道しますが、ちょっと考えてみてください。西洋哲学は、ギリシャ哲学における「世界は何で出来ているのか?(火・水・数・・・)」という思索から始まり、この世の中の事象を成立させている決定的な原因(=真理)を探ろうとしてきました。しかし、この考え方を突き詰めていくと、人間の運命も何か(例えば、神)によってあらかじめ決定されている、という考え方に行きつきます。

しかし、心ある人間として、すべてが運命的に決められているなんていう考え方はどうも気に食わない。やはり、人間たるもの自らの力で人生を切り開いていくのだ、という考え方の方がすっきりするし、生きやすい。ただ、こうした自己中心の考え方もつきつめていくと、世の中に存在する「客観」と自らの「主観」が対立し、ひどくなると世の中のすべてが疑わしいという独善的な懐疑主義やニヒリズムに陥る危険性があります。

哲学の世界では、こうした客観的真理が存在するのか・しないのかが大きなテーマとなって長い間いろんな議論・思想が生まれてきたのですが、 フッサールという哲学者は、「間主観性」という考え方でこの対立的問題を解決しようとしました。それは慨して言えば、人間の認識の外にあらかじめ客観的真理が存在するのではなく、個々の主観同士が同じモノをみて、そこに共通の了解が産まれた時にそれが真理となる、というという考え方です。(自然科学的な法則も、人間の認識によって自然現象に秩序づけているだけ、という考え方。)

つまり、フッサール哲学(現象学)では、自らの主体的な自らの在り様(主観)を前提としながらも、懐疑主義やニヒリズムに陥ることなく、他者と共有できる客観的世界が成立することを示したのです。この考え方は、非常に面白いと思いませんか?世の中は「客観的な正しさ」で出来ているのではなく、「人間どうしの関係の中で、相互の確信の一致としてただ作り出されるもの」(竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」p.68)なのです。

そう考えれば、自分のやろうとしていることが正しいのか、本当にあっているのかを悩むことには実はまったく意味がなくなります。よく、ベンチャースピリットの一つとして、「パラノイアだけが生き残る」(アンディ・グローブ)が引き合いにだされますが、それは、「本当がどうかわからない事を、恐怖心を振り切ってトライする」というイメージではなく、自分が「それは本当である/世の中にとっての普遍的価値がある」と心の底から信じることを、他者からの共通理解を得られるまでやっていく、ということのように思われます。


イノベーション時代における「主観の強さ」の意味
もはやあまり説明する必要もない気もしますが、上記で述べたように、世の中にイノベーションを起こそうとするような試みにおいては、世の中の常識ではなくても、「それは本当である/普遍的価値がある」という確信が自らの中に存在していなくては何も始まりません。

しかも、自らの中の確信は、「間主観性」を引き合いにだせば、世の中の他者からの共通理解を得て初めて意味ある真実となるわけですから、これをきちんと他者に説明をして、納得を引き出していかなければなりません。そのためには、「私は~が好きだ/思う」レベルでは、未だ世の中の常識ではない「未来の真実」を、他人に理解させることもできないはずです。

なぜそれが好きか、そう思うかを自らの価値観まで掘り下げて理解していないと、他人に説明することも難しいでしょうし、どちらにしても理解されにくい新しい価値観を、他人に拒否されつづけてもあきらめることなく試し続けるためには、自分の中での明快なロジックとしてを伴っての「それが大切だ」という、「強い主観」が必要になります。

しかしながら、前回述べたように、自らの主観をきちんと掘り下げて語れる日本人は、あくまでもゴゴの個人的感覚ではあるものの、非常に少ないと思います。でも、だからこそ、これからの時代を切り開いて行こうとする若者にとっては、「強い主観」を磨くことの価値が非常に高まってくるとゴゴは思うわけです。

ロジカルシンキング的なスキルはもちろん大切ですが、それでもって客観的な正しさのみを検証することに埋没することなく、自分は世界をどう捉えているのかといった物の見方や、自分が大切に思うことの根源となる価値観を掘り下げていくような「主観の磨き上げ」に投資していくことは、イノベーティブなチャレンジに挑戦しようとする人にとって、絶対これからの時代で効いてきますよ!

 
P.S.
これを書いてる本日は2013年の大晦日。
(買いだしやらの年末家庭進行のさながら、早朝起きだして書いてます。。我ながら何してんだか。) 

強い主観にあふれてイノベーティブな可能性に満ちた日本の未来に思いをはせながら・・・皆様よいお年を!



※今回の参考図書



一連の「主観論」の途中ですが、「安倍総理の靖国神社参拝は今後どのような影響を及ぼすか?」というテーマを某所で知人からいただき、少々考えるところがあったので、今回は話題の「靖国参拝問題」の本質を考えます。

まずは、いつも斜め上で「いいネタ」を提供してくれる朝日新聞から。

中韓メディア「感情踏みにじる」 靖国参拝、米紙も懸念


いつもの感じですね。感情踏みにじるというならば、竹島を不法占領してたり、尖閣は俺のものとか色々勝手されてる日本人の感情はどうなんでしょうね?靖国神社の位置づけがまあいろいろ議論あるのは分かりますが、総理を務める一個人が神社にいったことで感情を踏みにじられたから問題だと。。なるほど。日本の中にも同じようなことを言って勝手に傷ついたり騒いだりしている、ちょっとよく理解できないヒマな人達もたくさんいるでしょうし、感情論を言い始めたらキリがありません。ま、どうでもいい話です。

さて次。ヤフーニュースですが、もとはAFP時事の配信記事です。

安倍首相の靖国参拝、米国は「心から失望」 分析


今回の件、確かにアメリカ政府が、「失望」という強いメッセージを出したことについては気になります。どのような問題意識をもってのことのことなんでしょう?

上記記事中、下記のような見方が紹介されていました。
***
「防衛分野での日米協力など米国が進めようとしている計画を前進させようとしている中で行った今回の参拝を取り巻く状況は、小泉氏の時とは異なるとグリーン氏は指摘する。

『中国は、日米同盟関係強化に向けたあらゆる動きを妨害するだろう。しかし、日本が一連の変革を進める中、米国としては韓国にはこちら側についてもらう必要がある」
***
 
なるほど、この見方であればアメリカ政府が問題視することは理解できます。日本から見てると中韓は同じように見えますが、アメリカから見ると極東地域防衛の観点で、中韓はステークホルダーだとして別だという視点は面白いですし、重要ですね。(確かに、話題の「テキサス親父」もSpa!のインタビューで、日米韓は結束を強めなければいけない、と言ってます。)

地域防衛連携の観点で考えれば、南スーダンで韓国軍に弾薬援助したのは、イマイチな朴政権に対する韓国世論のゆさぶりという面も含めてなかなかいい動きだったと思いますが、靖国参拝問題がきっかけか、韓国軍側から弾薬を返すと態度を硬化させてしまったのは、まったく勿体ないハナシです。その意味では、今回の靖国参拝は「問題」ですね。

しかし、上記はあくまでも一つの見方ですから、実際のところ、アメリカ政府は何を問題視しているんでしょうね?政府でもマスコミでもいいですが、きちんとコミュニケーションして、本質をきちんと把握してほしいところです。


というわけで、ゴゴ的にはフワッとしたよくわからない感情論みたいな趣旨での靖国参拝批判には何の意味があるのかと全く興味ありませんし、中国・韓国との関係性が悪いのは元からのところもあるのでイマサラと言う感じですが、アメリカをはじめとする第三国が、今回の件の実際的な「問題」を何だと考えているか、その核心はしっかり掴んでおくべきだと思います。

(補足)
靖国や慰安婦問題など、欧米からみて日本が右傾化しているようにみられてイメージ的に損をするといった趣旨の話については、それはイメージの問題ですから、きちんと対外広報戦略をすすめていくほかありませんね。

その際、靖国神社については、行かないようにするのではなく、むしろタイミングを見ながら淡々と参拝を続けることで慣れさせてしまう(off issue化する)がいいと思いますけどね。 戦没者を悼んで参拝すること自体がなんでこんなに大問題になるのか、そうした異常な事態自体が、一つの「問題」だと思います。アホくさ。

前回記事の続きです。前回、新しい価値を生み出していくことが求められる時代においては、客観性よりも主観の方が重要になる、というハナシをしていました。では、主観とはそもそもいったい何なのか、どうすれば「主観を磨く」ことができるのか、ということを今回の記事では掘り下げます。

主観とは何なのか
さてまず、主観、主観的であるというのは、どういうことでしょうか?普通に考えて、主観というのは、「私は~と思う、感じる」という個人的な認知や感覚です。他方で、客観というのは、世の中の真実・真理や常識に照らし合わせて、誰からみても多くは正解・妥当とされるであろうことをより分ける判断です。では、主観的な「私は~と思う、感じる」という感覚は、いったいどこからやってくるのでしょうか?

例えば、ゴゴは一時、ジャズを好んで聞いていました。「私はジャズが好きです」ということですね。じゃあ、なぜジャズが好きなのか?「好きだと感じたんだから好きなんだよ」、こういうオレ様ルール的な態度(※)から一歩進んで考えてみます。そうすると、「アドリブ効かせたり、少しテンポやコードをずらしたりといった、ルールにとらわれない自由なスタイルや偶発性、そこから生まれる感情的なエネルギーに魅力を感じる」と、一歩掘り下げた説明もできます。つまり、ゴゴの主観は、「自由でルールが決まっていないこと、感情的なこと」に魅力を感じており、その一つの表れとして、ジャズを好んでいる、と言えます。

(※最近、「ヤンキー消費」がちょっとしたホットコンセプトになっているようですが、ヤンキー文化にありがちな、こうしたオレ様ルール的な考え方も拡大していくのだとすると、さらに日本の先行きが心配になってきます。。)

しかし、同じく「ジャズが好きです」という別の人に、同じようになぜかを掘り下げて聞いた場合、例えば、「ジャズの持つ多彩でメカニカルなコード体系や、理知的な雰囲気が快い」と答える人もいるかもしれません。この人は、ゴゴとは違うこの人なりの主観でジャズの魅力を捉えています。

つまり、主観というのは、その人固有の価値観によって、自分の外側に存在する対象の良い-わるいや、美しい-美しくないといった価値判断をする姿勢であり、「主体的なモノゴトの捉え方そのもの」といえます。


どのように「主観を磨く」のか-批評するということ
前段のように見ると、主観的といっても、「僕はジャズがクールだと思う」「私はクラシックが好きです」「俺はヒップホップが好きなんだよ」という、「いわゆる主観的」な態度から、一歩掘り下げた在り様があることが分かったかと思います。では、客観的な論拠なく、なんとなく自らがこう思う、こう感じるということは誰にでもあると思いますが、それがどこからきているのか、どんな価値観やコンセプトに基づいているのかを説明できるでしょうか?

非常に個人的な感覚ですが、自らの価値観を掘り下げて主観を語れる日本人は、かなり少ないように思います。モノゴトの考え方や感じ方を掘り下げていく行為というのはまさに哲学的な行為ですが、こうした「正解のない」ことを突き詰めて考える訓練は、日本の通常教育の中ではおこなわれていません。もちろん会社に入ってもそんなことは求められません。すでに世の中に存在する知識、データ、枠組みを組み合わせて、正解を出すことのみを求めてきた結果ですね。(それはそれで、時代的な合理性があったと思いますが。)

しかし、こうした価値観のベースが確立されていない「主観」というのは、非常に脆いものです。ただただ「僕はジャズがクールだと思う」「俺はヒップホップが好きなんだよ」なんて言い争うのはさすがに非建設的ですし、それ以上語るコトバをもたなければ、主観的な「好み」は、個人的な趣味の範疇として、内心にとどめ置くことが妥当になってしまいます。さらにひどい場合、個人の中に主体的な価値軸が育たないために、他人の評価や世の中の流行にのることでしか自らの好みをカタチ作れないとなれば、画一的で表面的な社会集団やマーケットしか生まれない=イノベーションが起きにくい、という状況につながってしまうとゴゴは考えます。

これが、前回記事の中でロンドンのデザインファームの知人から言われた、「日本人は主観的な部分が弱い」ということにつながっているのだと思います。ではどうすれば主観を磨けるかと言えば、すでに上記に見たように、自分が思ったり感じたりすることの核心的な根っこを、きちんとコトバでとらえる訓練をするということです。これは、さまざまな事象に対して、「批評」を行うということで実践できます。

批評ということは、なんでもかんでも批判することと思われがちですが、それは違います。ゴゴが愛読する「哲学は何の役に立つのか」(西研、佐藤幹夫)から、以下の一節を紹介します。

「マンガでも映画でもいいのですが、なぜかあの主人公はカッコいいよ、こっちはダサいよ、と感じる。じゃあその『カッコいい』をどんな言葉にできるか。言葉でいうためには、自分の感触に向き合ってそれを見つめなおす必要がある。そして、それを他人に伝えて対話していく。そのことによって、自分の価値観を自覚的に検証して、鍛えていくことができる。」(同書P.86)

このゴゴログも、こうして考えると自分の主観を鍛えるためにやっているようなもんです。


こうした主観の強さが、どのようにイノベーションを生み出すことにつながっていくのかという点についてまで書きたかったのですが、またまた長くなってしまうので、「次回に続く」ということで。





「客観的に考えろ!」・・・みなさん、一度はこういうことを言われたり、本などで学んだりしたことないですか?多分、普通に人生を送っていると、学生生活や仕事の中で、主観よりも客観性を問われることが圧倒が多いんじゃないかと思います。

極論すれば、客観的にモノゴトを見られる能力には価値があり、「アンタが自分で考えている主観なんてどうでもいい」、というのが、一般的な価値観ではないでしょうか。ところが、先週とある2つの出会いの中で、これからの時代、むしろ客観性よりも主観性が大切になってくるであろうという気付きを得る機会がありました。


一つは、東大ischoolで行われたワークショップに参加した時の話です。ischoolというのは、イノベーションを促す人材の育成を目指して、デザイン思考的なアプローチで教育に取り組んでいるプログラムなのですが、このワークショップの中で、「ワトソン君」の話題が紹介されていました。

AIのワトソン君、アメリカのクイズ番組で優勝したハナシはこちら

このワトソン君、クイズ番組で普通に口語で話される質問を理解し、人間と競って答えていくのですが、ぶっちぎりで優勝したそうです。このハナシ、ゴゴはまったく知らなかったのですが、AIはここまで来ているのですね。
(ちょうど前回記事でAIの話を扱ったところでもあったので、不思議にタイミングがつながるものだと。。。)

iSchool横田ディレクターの予想としては、「デザインする」という行為もある程度の思考フレーム・ステップが見えてきているので、2050年頃には、ある程度創造的な活動も含め、コンピューターが人間よりも優れて行える時代がくるだろう、逆に人間に価値が残るのは、何を作っていきたいかという「主体的な意思」ではないか、という話しでした。

そしてもう一つの出会いは、ロンドンのデザインファームをベースに活動する知人が日本に出張してきたタイミングで会って話していた時に出てきた、「日本人は主観的なところが弱いように思う」、というハナシです。

これがまさに今回のテーマを書く大きなきっかけになっているのですが、彼曰く、新しい価値を生み出していくプロセスにおいては、組織や個人が持つ何らかの根本的かつ固有の価値観やコンセプトを前面に出してエッジを効かせなければならない、しかし、こうした「主観的な」パワーがヨーロッパに比べて日本は弱く感じる、ということでした。

ヨーロッパはどうなのかと聞いてみると、個人が自らの好みを大切にしていて、知名度や他者の評価などにあまりこだわらず自分なりに楽しんでいること、またその分個々人の好みが分散しているために、多様なもの・新しいものが受け入れられる土壌やマーケットの厚みがある、とのこと。

一方で日本はどうかと考えると、まさに冒頭で上げたように、「客観的に見てどうなんだ?」的な、すでに確立されたものの見方や価値観に照らして、自分の考え方があっている、間違っている、といったような思考に知らず知らず染まってしまっているように思います。

客観性というのは、それはそれで大切なことは間違いないですが、それでは主観はどうするんだ?というところには、今まで全く光があたっていなかったと思います。

正しいことを間違えないように遂行すること、そういう時代であれば、確かに客観性一本槍でも良かったのでしょう。しかし、新しい価値を生み出していく中で、「主観的な」価値観・コンセプトが求められ、一方で誰が見ても正しい「客観的なこと」は、どんどんAIがとって変わっていく時代がすぐそこにやってきているとしたら・・・?どう考えても、主観的なモノの考え方がもっともっと求められるようになってくるはずです。

じゃあ、「俺はあれが好き、これは好みじゃない!」なんて、「ユニークな個性(笑)」をぶちまけ続けることが、主観を磨くことにつながるのか?いえいえ、ゴゴログはそんな浅くないっすよ、と行きたいのですが、ちょっと長くなってしまうので、そこは次回に続く、ということで。

*2015.12.24 一部修正・加筆

「コンピューターが人間の脳を超える日が近い将来やってくる」なんて議論を最近耳にすることがあります。近年続くコンピューターテクノロジーの発達や、統計学をベースにしたビッグデータ解析による予測モデルの発展などを背景として、AI(人口知能)が、近い将来人類の思考能力を超える日がくる、というハナシです。

「2018年頃にはコンピュータ・チップの容量が人間の脳細胞の容量を超える」(孫正義)

シンギュラリティ -約30年後の「何が起こるかわからない1日

ウィキペディア:技術的特異点(Singularity, シンギュラリティー)


さて、本当にそんな日はやってくるのか?

知人がFBでシェアしていたブログ記事(「技術的特異点と仏教的生命観の接点」)に触発されてコメントしたことをベースに、今回は「コンピューターが人間の脳を超える日」なんてものはやってこないことを、哲学的に論証してみたく思います。



上記の記事の中で、「仏教的生命観には、人間には個としての自分と全体としての自分という2つの側面がある」ということが触れられており、これは面白いなと思いました。いきなり結論めいた話になりますが、「コンピューターが人間の脳を超える日なんて来ない」とタイトルで言っているのは、まさに「全」と「個」の関係で、「全なくして個はない」という考えに基づいています。

どういうことかと言うと、引用記事の中での全と個の捉え方とは少し違うかもしれませんが、個人の思考というのは、それ自体が独立して存在しているのではなく、自分の周囲の世界との関係性で生まれてきているとゴゴは考えています。つまり、全と個は本当は切り離せないものだということです。(※)


ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし、何も見えず、何も聞こえず、何の情報も入ってこない、つまり自分の外側に何もない世界に入ったとします。さて、ずっとそこで1年間住み続けたとして、あなたはそこでどんな考えを生みだせるでしょうか?おそらく、過去の記憶を思い出す以外、新しいことは何一つ考えられないと思います。(最初は記憶をベースに多少は新しい何かを考えられるかもしれませんけど。)それ以上に、あなたはもはや「個」というものを失っていると思います。

こう考えると、私たちが「個」と言っているもの、それは主体的な認知や思考と言い換えられると思いますが、それは自分の外的な世界を認知し、その外的な世界との関係性の中で「個」というものを考えているにすぎないと言えます。つまり、「個」はそれのみで独立しては存在しないものである、ということです。

しかし、シンギュラリティというのは、個を独立したものと捉えて、完全無欠な知性をプログラムで作り出すという、ある意味西洋的な思想を前提にした議論だと思います。(西洋思想でも、ネットテクノロジーの世界以外では、こんなピュアな個のあり方は修正されてきていると思いますが)


一方で生身の人間の思考能力の面白い点は、過去の経験や外部との関係性から、そして生きていることに起因するさまざまな苦しみから、必ず何かしら認識に歪みを持っているところだと思います。場合によってはそれが誤認や妄想となって判断の質を低下させますが、一方でそうした認識の歪みが、人とは異なる新しい物の見方や芸術的な発想につながっており、そこに人間の創造性の源があるのだとゴゴは考えています。

そう考えると、個々に異なる認識の歪みも含めた全人類の思考能力を超越した知性というのは、人間が持ちうる全ての認識パターンを把握した上で、そのどれよりも優れた認識レンズを搭載する、あるいは1人の人間では持ち得ないほどの多様な認識レンズを使い分けるものではならないはずです。

そしてそうした個の知性は外部との関係性から生まれてくるわけですから、人間の思考能力をはるかに越えたAIを作り出すためには、究極的に言えば開発者は先ずこの世界のあり様すべてを完全に理解し、その世界との関係性で生まれる得る人間の思考のパターンもすべて解明した上で、それよりも優れた思考・認識構造をコード化してAIに搭載する、あるいはAIが自ら獲得する学習アルゴリズムを開発することが必要になります。これができれば、あとは莫大な計算力で完全に人間の能力を完全に超越できます。


しかし、世界の全てと、その中で生まれる思考のパターンを理解し尽くすというのは、それこそ神様でなくては不可能です。なので、AIが人類を超えることはない、という結論に至ります。(以上、証明終わり。)

・・・とまあ乱暴なロジックでキチンとした証明にはなってないわけですが(ここまで書いといてそれかよ!というツッコミも聞こえてきそうですがw)、人間の知性というのは一体何なのか?という哲学的命題が完全に解明されない限り、シンギュラリティなんざチャンチャラおかしいわ、というのが個人的な見方です。そして多分人間が人間を分かりつくす日なんてやってこないでしょう。これは単に希望的観測にしかすぎませんけど。

***

最近、Techな世界では、昔の「人間が自然を管理する」的な思考を繰り返しているような気がします。それはある意味やんちゃで「何がでてくるか?」と面白いのですが、一方でこうした「全と個」を考えるといったような、人文的思想が欠落しているように感じます。そうした偏った物の考え方では、どこかで破綻するはずです。

ちなみに、シンギュラリティの議論の中で懸念されているように、AIが偏った思考パターンと能力でもって世界に混乱をもたらすことはあるかもしれませんが、そうなればまさに、AIが人間の思考よりも劣っていることの証明でもあるかと思います。

かといってAI開発に否定的なワケではなくて、むしろAI開発の過程で人間の知性についての理解が進めば、人工知能のみならず人類そのものにとっても有益な研究成果になるとむしろ期待しているんですけどね。。

いずれにしろ、AIが人類全体の思考能力を完全に超えるなんて日はたぶん永遠にやってこないでしょう、というハナシでした。


話題の特定秘密保護法、「知る権利」をはじめとした基本的人権が侵害される!みたいなハナシもありますが、さて皆さんどうお考えでしょう?ちゃんと確認するには法案を読めばいいのですが、なんとなくカベが高そうで、法案をわざわざ確認しようとする人は、かなり少ないんじゃないでしょうか?

というわけで、超シンプルな法律一般の読み解き方をお教えします。では、さっそく特定秘密保護法をサンプルに、法文全文を見てみましょう。特定秘密保護法案は全27条の、法律としては割とシンプル条文です。

特定秘密保護法の全文(朝日新聞デジタル)
 ※特定秘密保護法に対する反対の大論陣を張っていた朝日新聞社がソースなので、反対論者も安心ですね!

おっと、開いていきなりアタマから読みこなそうとしてはいけません!
まず、法律というのは、最初に総則があって、「法律の目的」と、「この法律文章で使われるコトバの定義」が示されています。 ここはここで大切なのですが、ゴゴ流のおススメは、最後の方に記載されている「罰則」をまず確認することです。(法律によっては、罰則がないものもあります。いわゆるひとつのザル法です。)

特定秘密保護法の罰則は、第七章・第23条~27条の4条だけです。抜粋してみます。

第二十三条 特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする。

2 第四条第五項、第九条、第十条又は第十八条第四項後段の規定により提供された特定秘密について、当該提供の目的である業務により当該特定秘密を知得した者がこれを漏らしたときは、五年以下の懲役に処し、又は情状により五年以下の懲役及び五百万円以下の罰金に処する。第十条第一項第一号ロに規定する場合において提示された特定秘密について、当該特定秘密の提示を受けた者がこれを漏らしたときも、同様とする。

(3~5 省略)

第二十四条 外国の利益若しくは自己の不正の利益を図り、又は我が国の安全若しくは国民の生命若しくは身体を害すべき用途に供する目的で、人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、
行為(不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為をいう。)その他の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。

(2・3略)

第二十五条 第二十三条第一項又は前条第一項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、五年以下の懲役に処する。

2 第二十三条第二項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、三年以下の懲役に処する。

第二十六条 第二十三条第三項若しくは第二十四条第二項の罪を犯した者又は前条の罪を犯した者のうち第二十三条第一項若しくは第二項若しくは第二十四条第一項に規定する行為の遂行を共謀したものが自首したときは、その刑を軽減し、又は免除する。

第二十七条 第二十三条の罪は、日本国外において同条の罪を犯した者にも適用する。

さて、いかがでしょう?法文としてのコトバの固さはどうしても残りますが、罰則の対象は、
・特定業務の取扱業務に従事する者(23条)
・法文上の一定の規定により業務上、特定秘密を提供された者(23条)
・外国のスパイ(24条)
・その他、上記の共犯者・教唆者(25条)
だけです。(26条は自首した場合の刑の軽減、27条は国外にいて違反する者への適用についてです。)

更に、罰則の手前の雑則においては、

第二十二条 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。

2 出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。

とまで念入りに書いてくれています。

さあ、これだけ見れば、もういいですよね?特定秘密法案について、いろいろと「文化人」が言っていることが、いかに荒唐無稽で法律の中身をよく理解しないまま叫んでいるものかがお分かりになるかと思います。

(しかも、仮に現時点で予想しえなかった憲法に違反するような法律運用があれば、この法律を「違憲無効」として争うこともできるので、こんな法律ごときで国民の基本的人権が回復不可能なほどに侵害されることはありません。それこそ、彼らも大切だと叫ぶ日本国憲法の有効性を、自ら疑っているようなものです。ちなみに、自分が活動家の立場なら、「秘密保護法案が底抜けに悪用されることのないよう、憲法改正にはより慎重になるべき」という、次の一手を打ちますケド。笑)


というわけで、法律がどんな影響を及ぼしうるのかを知りたければ、まずはさくっと「罰則」の章を見れば結構わかるものです。そこから、細かい定義やら「第○○条で規定する~」なんてのが、いったい何なのかが気になるのであれば、条文の並びを気にせずに、関係部分を拾い読みすればいいのです。全文を読み通さなくても、大体どんな法律で、どんな影響を及ぼし得るかをつかむことができます。

さあこれで、「ほにゃらら法は国の陰謀だ!」みたいな世迷い事に惑わされることはありません。ぜひ、気になる法律があれば、サクサク「罰則」を確認してみてください!


P.S.
法律の途中には、行政機関が行うべき手続の話など、「中の人」にしか関係ないところも結構あるので、普通はそんなところを知る必要はありません。「何をすれば罰せられるのか?してはいけないのか?」ということだけ理解すれば、ある意味十分と言えます。

ちなみに、細かく定義などを追っていく方には、「『政令で定めるところにより~』とか書いてて詳細が良くわからん!」という疑問が出てくるかもしれません。法令というのは実は、法律>政令>省令>規定等といった重層構造で出来上がっているためなのですが、その話はまたいずれ。

ビットコインネタ、まさかこんなに引っ張ると思わなかったのですが、今回は、よくわかりにくいであろうビットコインが産まれる仕組みと、流通管理の仕組みについて、先の中本論文を読んで理解したことと、その上での通貨としての技術的限界について考えてみます。

しかしこのネタ、調べれば調べるほど興味が深まっております。(あ、以前の記事を読んでない方のために言っておくと、あくまでも、通貨としての有効性に対する懐疑として、ですからね。ゴゴはビットコインはマネー(貨幣)ではない、というスタンスです。)

ま、それもこれも最初の記事に反論コメントを頂いた方のおかげです。ご本人はやりとりが気に食わなかったようで、コメントも消してくれていいと機嫌をそこねてしまったようですが、議論というのは深まってこそ面白いもの。前回記事や今回の記事にも是非コメントいただきたいところです。

***

さて本題ですが、友人より、「ビットコインの発行元や権限、総量管理の方法がわからん」というコメントをいただいたので、前回記事で端折ったこのあたりの話を、毒を食らわば皿までと、考えてみることにします。

1.ビットコインの発行について
まず、ビットコインには、「発行元」という主体は存在しません。(これが、最初の記事に「分かってない」と反論いただいたポイントですね。) ビットコインは、ビットコイン・マイニングプログラムを走らせることで製造されます。

「え、勝手におカネ作ってんの?」と思われるかもしれませんが、半分ホント、半分間違いです。あくまでも「ビットコイン」というデータセットが作られるだけです。そして、ここからがビットコインを通貨として認めるかどうかの議論が分かれるコアになるのですが、「これはおカネである」と認める人にとっては、おカネとして認識されるわけです。ちょっと意味わからないですよね?ここは次に説明します。逆に、これをおカネと認めない人にとっては、価値のないデータセットがどこかで勝手に作られているだけの話です。(ゴゴはこちらの立場) 

じゃあなぜこんな勝手に作られたデータセットを、 「おカネ」として認める人たちがいるのか?それは、このビットコインの製造と流通のシステムが、誰かの恣意的な操作で勝手にビットコインを増やしたり、不正な二重使用ができないよう、うまく設計されたシステムになっているからです。(この仕組みこそが、中本論文の要旨です。)

ウェブマネーというのは、物理的な形がないために、それが不正に複製されたものでないことをきちんと証明できないと、誰も使おうとはしません。当然ですよね。「偽札」に交換される可能性の高いシステムを使う人はいません。そこで、通常は信頼性の高い発行元が、電子認証技術を使って一元的にウェブマネーの真正性を管理するシステムを使ってバーチャルなお金を発行・管理しています。

一方で、ビットコインには、冒頭述べたように発行元は存在しません。 Peer to Peer(P2P)ネットワークという自律分散型システムの中で、プログラムを導入したシステムがそれぞれ独自にビットコインを製造しています。しかし、一つ一つのビットコインが他に存在するものと同じではない、ユニークなものであることを確保するために、作ろうとするビットコインがすでに存在するビットコインと同一のデータセットを持ったものでないことを検証した上で、 新しいコインを製造するような仕組みになっています。

一度のプログラム実行(「マイニング」)により製造されるコインは50枚と定義されているようです。最初はそれこそザクザク製造できるのですが、存在する枚数が多くなってくると同時に、製造に参加するネットワークも増えてくると、作ろうとするコインのデータセットが他とカブってないことを確立する検証に時間がかかるようになるため、そう簡単にいくらでも作れる代物ではなくなります。(数学的センスがある方なら、この検算作業が幾何級数的に複雑になっていくことがイメージできるかと思います。) 

これと合わせ、ビットコインの年間発行量には、年々逓減する上限値が定められているため、どれだけ多くの人が、どれだけ進化したCPUパワーをもってしたところで、急に総量が膨れ上がることはありません。こうした発行量の安定性・非恣意性が、ビットコインを「おカネ」として認める人たちの論拠の一つです。昔は貝殻が通貨替わりであった時代もあるわけで、それが「信頼できる」となれば、無価値なものでも通貨たりうる、という理屈です。

2.流通管理
さて、こうして作り出されたビットコインですが、使用する段階で、支払先AとBに、ほぼ同時に払い出されたらどうなるでしょう?(より正確に言うと、一度払い出して、不正なキャンセル操作をして密かに取り戻したコインを別の払い出し先に対して使用するケース。もとが同じコインが二重に使用された状態です。)この場合、片方のデータは真のビットコインであり、もう片方は「偽札の」ビットコインということになります。ビットコインの適正管理を保つためには、どちらかのコインを真のもとのし、どちらかを偽とする必要があります。

ここにおいて、ビットコインの管理システムは、「履歴のチェーンの長さ」を真正性の判定に使います。ビットコインのデータセットには、ネットワーク間での取り交わしのログ(履歴)が、過去のものも含めて延々と記録される仕様になっています。そのため、二つのデータセットのうち、より長いログを保有している方、おおざっぱに言えば、先に使用されてより長い取引履歴を持っているビットコインを真とする条件をプログラムに内包させています。

ビットコインの使用履歴は、ほぼ瞬間的にネットワーク全体に共有されるので、後追いで不正に二重使用されたコインはより短い履歴になっており、製造段階で同じユニークネスIDを持っていて、ログの長さが異なる二つのコインが検出された時には、ログの短い方のコインを拒絶する仕掛けになっています。

ビットコインの流通を受け入れるシステムの中では、こうした検証作業がひたすら行われており、先に使用されたコインを不正に二重使用をしようとするならば、ネットワーク全体の過半の検証作業能力を上回る演算能力を持って、先回りして後に使用した方のコインの真正性証明(プルーフオブワーク)を作成しなければいけないのですが、こうしたことを可能にするのは現実的にほぼ不可能なレベルであるという、確率論的な立証によって、ビットコインの受け取りと流通に関する信頼性が実現されています。こうした不正使用に対するハードルも、ビットコインを貨幣としての信頼性を語る論拠の一つとなっています。

 3.ビットコインを貨幣(マネー)とすることの矛盾 
このように見ていくと、ビットコインを支える理論ベースは、それなりに正統性を感じさせるものになっています。しかし、やはりビットコインを貨幣として、世の中の決済を塗り替えようとするには、いくつかの無理が存在しているように思われます。

●将来の希少性を理由とした価値の急騰と、貨幣としての機能の矛盾
ビットコインは、適正な流通量を維持するために、年々の発行上限を決めており、だんだんとそれが逓減していくモデルのため、最終的なマーケット流通量には理論的な上限値があります。こうした入手可能性の限定をタテに、数量が限られたビットコインは将来価値が上がるとのあおりを受けた人たちが、我先にとビットコインを買いに走ってその価格を釣り上げています。 

しかし、貨幣というのはあくまでも価値交換の媒介物であって、本来それ自体の価値が大きく変動するのでは、貨幣としての機能を果たしません。逆に、論文を離れたところでのビットコインの説明においては、ビットコインは希少性により価値が認められた、金(ゴールド)のようなものである、との説明もみられます。 ここにおいて、ビットコインは、通貨(マネー)と、資源(金)との微妙なすり替えを行っています。

確かに、製造量(採掘量)に限界があり、製造上限(埋蔵量)にも限界があるという仕立てにおいて、金とビットコインは似ています。しかし、金は現代の世の中にあって通貨ではありません。装飾材料としての根源的な高い価値が認められる中で金の取引マーケットは存在しますが、それでも金はマネーではありません。

同じようなマーケット構造は、古い切手の交換売買のマーケットにも見られます。一部の切手マニアには、特殊な切手に対する彼ら固有の価値観を持って、高額であっても入手しようとするマーケットが存在します。ビットコインが希少であるということをもって、取引市場において加熱した取引がされているということは、ビットコインがこうした特殊な切手と同じような存在であることの証明であり、同時にマネーではないことの証明になります。

説明によっては「仮想のゴールド」などとうまくいわれているがために、「仮想通貨」として受け入れられているようですが、それが仮想の「金」であれ、「切手」であれ、あるいはゴゴがかつてあつめた「牛乳ビンのフタ」であれ、ビットコインはおカネではないし、そいうした特殊な収集ニーズの中でたまたま今、取引マーケットが過熱しているだけ、ととらえるのが正確だと思います。

●ビットコインを貨幣(マネー)とすることの技術的矛盾
先の項では、ビットコインは貨幣ではないとの理屈を展開しましたが、仮にこれを貨幣だと認めたとすると、どんな問題があるでしょうか?

ビットコインは、中央管理的な仕組みにかわって、とあるビットコインの流通の適正性を、その都度ネットワーク全体で検証検算を行うことで、いかなる権力からも解放された貨幣流通を実現することがその本質です。しかし、こうした思想とそれを実現する仕組みの中に、ビットコインが現実のおカネに成り代わる可能性がないという技術的な限界を内包しています。 

通常、おカネを使う場合に、そのお金が偽札がどうかを検証したりしないですよね?それは、現実的なマテリアルとして、偽札を作ることのむずかしさが、一元的に管理されているからです。一方、ビットコインは、偽物を作り出すことよりも、偽物が流通することを、ネットワーク全体の中での相互監視によって阻止しようとすることがベースにあります。例えていうなら、あなたがとあるお札を使おうとするタイミングで、そのお札と同じ番号のものが、以前に別のルートで使わて別のところにないか?ということを何らかのシステムを使って都度都度確認するようなシステムです。

もちろん、そうした計算はP2Pネットワークの中で無数に連結されたコンピューターの共同作業によってなされるので、瞬時に終わることが期待されています。しかし、ビットコインの存在量と流通速度が格段に増えた時に、こうした検証作業が適切な時間の中で完結するとは限りません。

先に述べたように、ビットコインの年間産出量とトータルの累積算出量については、理論的な上限が設定されています。これについては、その必然性が中本論文では語られていませんが、おそらく、無制限にビットコインが製造・流通されるようになると、プルーフオブワークを検証する作業がスタックしてしまい、取引が成立しない状況になることを懸念したことによるのではないかとゴゴは推測します。(CPUの演算パワーが今後も飛躍的に改善しつづければ総量規制をしなくても問題は起きないかもしれませんが、保険をかけておく方が、ビットコインシステムを長く運用したい方にとっては有用ですよね。)

しかし問題は、おそらくビットコイン作成者が想定しなかったであろう、急激なビットコインの取引増加です。1ビットコインは2013年12月1日現在で、約10万円ほどに高騰しているようですが、使用単位が約10万円では、使い勝手が悪くてしょうがないですよね?

ビットコインは、コイン価値の変動に対応して、最大1億分の1ビットコインまで分割して使用できるようになっているようです。しかし、現在のように高騰してしまえば、実質上の使用単位は1ビットコインよりも小さな単位になってしまっているはずで、いくらビットコイン単位での流通量を制限しようとも、0.01ビットコインとか、小数点単位のビットコインが実際上の流通単位になってしまえば、プルーフオブワークの処理量は、それに応じて急激に増加するはずです。

ビットコインの持つデータセットは、ある一定量で過去のものを捨てても大丈夫なように設計されているようですが、その制御されたデータマックスで流通上限の1億倍(1億分の1ビットコインが現在の最大分割単位なので)の処理をP2Pネットワークの能力で完全にこなせるのか?

もし、絶対に取引事故が起きないように数量設定されているとすれば、現実世界で使用できるよりもかなり少ない取引総量でハードルを設定するはずですし、逆に、現実世界の貨幣をすべてリプレイスする思想で設計されている場合、 現実世界での想定取引量よりも多くの取引が発生してしまえば、そこでビットコインでの取引はダウンしてしまうのではないかと思います。

つまり、ビットコインが安全に、適度な処理速度で活用できる範囲というのは、現実世界での取引の総量よりも小さい、つまり貨幣としても認められてもその流通範囲が小さく限定されたものにしかなりえないのではないか?というのがゴゴの仮説です。(あくまでも、ビットコインが貨幣として認められ、安定的に使用されるとした前提です。くどいですが、ゴゴはビットコインは仮想ゴールド(または仮想の牛乳ビンのフタ)とは認めても、マネーとしてはみとめてません。) 

上記の仮説がもし本当であり、ビットコインの現実世界での使用可能性が、通常のマネーよりも小さいのだとの理解がうまれてしまった瞬間、ビットコインは致命的に急落するでしょう。 世界中のユーザーにとって、ビットコインが日本の多摩地域の中でしか、あるいは牛乳ビンのフタを集めている小学生の中でしか通用しないとなれば、だれもそれを保有しようとはし続けませんよね。

4.まとめ
というわけで、

・ そもそもビットコインはマネーではない。なぜならば、製造のタイミングでは、プログラムにより生み出される、何らバックアセットをもたないデータのカタマリにすぎないから。「仮想ゴールド」と例えられるように、あるいはゴゴが「かつて集めた牛乳ビンのフタ」と揶揄するように、その特殊な価値を求める人にしか価値のない、特殊な財物である。

・ 仮にビットコインをマネーと認めて流通させたとしても、個別の仕様タイミングでその通貨の真正性をネットワーク全体で都度都度検証するという仕組みには、能力的限界があるのではないかと思われる。 あるいはもし、ビットコインが世界全体での貨幣流通を支えられるシステムであるとするならば、ビットコインに将来的な希少性などなく、やはり現在の価格は100%バブルであるといえる。
(日常使われている貨幣に、希少価値を感じて高値で集めるバカはいないですよね?)

いずれにしても、ビットコインはその理論を追ってみると、最終的にどこかで矛盾が発生します。しかし、ネットワークセキュリティ理論と、二重使用リスクの発生確率論と、貨幣発行・管理の正統性という、なかなか重ならない領域の専門知識を組み合わせて作られているため、その矛盾に気づきにくい内容になっている、というのがゴゴの所感です。 

結構精緻な理論構成に、ひょっとしたらビットコインの生成段階できちんとアセットバックが担保できれば、すぐれた流通システムになるかもと思いましたが、コインの真正性を都度都度検証するという仕組みは、どこかで計算量が爆発して破たん するように感じています。(このあたり、だれか検証してほしい。。) 間違っていることを恐れずに断言すれば、ビットコインを「仮想通貨」として売っているなら、それは壮大な詐欺ですね。あくまでも、現時点では高値で売れる特殊な財物である、というのがせいぜい正しいところかと。


というわけで、ビットコインネタが思わず長くなりましたが、この辺がゴゴが掘った全体なので、ビットコインの話はこれで終了です。(異論などあれば、コメント欄で受け答えしていきます。もちろん、致命的な間違いがあれば、新規の記事を立てて訂正します。)
 

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