ゴゴログ

ゴゴトモヒロがモノゴトの本質を考えるブログ

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前回のつづきです。

「家計の担い手」と「おこづかい稼ぎ労働者」で、昔は二つに分かれていた労働市場が、近年混じり合ってしまっているとの考えを前回お話しましたが、その背景は何か、ありていに言えば、日本における製造業の衰退とサービス産業の発展です。

工場労働が減り、仕事にあぶれれば、当然需要の拡大する別の産業分野に移動しようと考えます。一方で、サービスセクターの側も、ビジネスの拡がりの中で、より多くの労働力を必要とします。ここで、従来は製造業で働いていた人のサービス産業への流入が発生します。

ところが問題は、飲食・小売の接客や、事務派遣などをはじめとするサービス業は、その成り立ちにおいて、学生やパート、あるいは昔の良き時代?のフリーターによって支えられてきたことから、今でも平均的に賃金水準が低く、場合によっては各種社会保険を必要としない働き方が基本前提になって、労働市場の相場が出来てしまっています。

この結果、「家計の担い手」と「おこづかい稼ぎ労働者」が、同じ労働市場で競合することになります。当然、雇う側としては、安い方が基本的にはいい訳で、「家計の担い手」の賃金水準その他待遇も、「おこづかい労働者」の方にひっぱられます。

近年、派遣や契約社員などが非正規労働として、正社員との待遇格差が問題視されていますが、そこはまさに、かつて分かれていた二つの労働市場が重なり合う主戦場であるが故に、問題が大きく顕在化したものとゴゴは考えます。派遣や契約労働といった雇用制度そのものが悪いわけではなく、格差のある労働条件でも、一定数の満足する労働者が存在し、そこに業界水準が引っ張られている、ということが問題の根本なのではないかと思います。
(もちろん、正社員の雇用保護が強いがゆえに、しわ寄せが非正規にいっている、というよく語られる構造も、別の話としてありますが。)

というところで、表題の「学生バイト・主婦パートの規制」という話ですが、少し乱暴な結論から言えば、「おこづかい稼ぎ労働」の引き締めを行い、「家計の担い手」にとっての賃金水準を引き上げる方向に持って行くことが、社会的な公正の観点からは、必要ではないかということです。

こういう言い方をすると語弊があるかもしれませんが、「賃金水準とか社会保障なんてどうでもいいから、ヒマな時間でちょっとしたおこづかいを稼ぎたい」というような、ある意味労働力をダンピングするような労働者の存在に引きずられて、家計を支えるために一定の賃金水準を必要とする「家計の担い手」の収入が場合によっては生活保護費よりも低いなんて状況は、どう考えても社会的に正しいとは思えません。

(現実には、学生バイトや主婦パートとはいえ、学費や家計の支えのために働いている方も多くいらっしゃるので、そうした皆さんまでひっくるめて、ヒマなのに働いている、というつもりはありません。念のため。)

賃金水準の引き上げは、企業や経済全体への影響も考えて議論するべき話ですが、ちょうど最近話題になっている吉川洋先生の新著「デフレーション」においても、日本のデフレの根本原因には、日本特有の賃金水準の切り下げがあるとの見方をされているようなので(買ったんだけど、まだ読めてません。。→読みました!良書です!)、経済全体の観点からも考えるに値することではないかとゴゴは考えます。
デフレーション―“日本の慢性病"の全貌を解明する [単行本]


では、「おこづかい労働」の引き締めって何よ?どうすんのよ?ってところなんですが、またまた長くなってしまったので、また次回。(いつも引っ張るカタチですみませんが、それだけ本質は深いものだということで。。。スミマセン。)


(つづきを読む)

さて、今回からは「雇用政策」について考えます。教育と雇用、結構セットで語られるので、テーマ変更にはちょうど良いかと。(でも、ここでは教育とつながる話は多分出て来ません。)

実は、ゴゴは経産省から厚労省・職業安定局っていう、雇用政策を扱う部局に2004〜2006年の2年間ほど出向してました。そこでの知見も含めて、雇用政策に関するいくつかの本質的な問題を考えたいと思います。

まず、今日は、そもそも論として、「なぜ学生バイト・主婦パートは規制されないのか?」について考えたいと思います。

労働市場というのも、一つの取引マーケットですが、マーケットの中では、プレイヤー間の「イコールフッティング(equal footing)」について、が良く論点になります。まあ、そんなカッコいい言葉を使わずとも、競争条件は平等か?ってことです。たとえば、旧郵政公社時代、税金も払わずに民間と同じサービスをするなんて、競争条件が違うじゃないか、不平等だ、と非難されたような話です。まあ、当然の主張ですね。最近では、JAL対ANAが同じような論争してますが、ああいう話しです。

で、これを労働力マーケットで考えると、「学生バイト・主婦パート」ってのは、イコールフッテイングではない存在なのではないか、ってのがゴゴの問題提起です。別に、学生や主婦が悪いというワケではないのですが、彼らの労働の多くは、雇用保険や年金負担といった労務コストがかからず、また、これは全員とは言いませんが、おこづかい稼ぎ的な理由で働いていて、賃金水準が低くても満足する層が多く存在すると思われます。

こういう労働者が、通常の労働マーケットに入ってくればどうなるでしょうか?当然、企業側としては、社会保険負担もなく、しかも比較的安い賃金で満足してくれる彼らを優先して使おうとするでしょう。

昔は、これでも問題ありませんでした。工場労働を含む、「家計の担い手」のための労働市場と、おこづかい稼ぎ的な働き手の労働市場は、ほぼ分断されていたのです。

かつて、製造業を中心に経済が拡大する中では、基本的にフルタイムでガッツリ働ける人間は常に不足し、当時の経済の中でそれほどの存在感がなかった小売・サービス業などは、本格的には働けないけど少しの時間はある学生・主婦を労働力として捕まえるしかないという状況で、「家計の担い手」と、「おこづかい稼ぎ労働者」は、基本的に混じり合うことがなかったからです。

こうして、実質的に二つの労働市場が分かれて存在していたのが、近年は混じってしまっており、これが、日本の雇用問題の大きな背景になっているとゴゴは思うのですが、あまりその点について論じるのを聞くことがありません。

また少し長くなってしまったので、なぜこの二つの労働市場が混じるようになってきたのか、そしてその問題点と、表題にある「学生バイト・主婦パートの規制」を、次回考えたいと思います。

(続きを読む)

※この記事は、「大学に行って何の役に立つのか?」(1~3)という記事のおまけ記事です。

数学・哲学の重要性は分かったものの、大学でも教えてくれないのに、じゃあどうやって勉強するの?というところまで語ってこそ、実践的な意味があろうというもの。おまけ編として、自分がどうやって学んできたのか、具体的な方法を紹介します。

<数学>
・森毅先生(今は亡き京大の名物数学教授)の、ほどほどに数学っぽい適当な文庫本エッセイを読む。
(このあたりとか?もう手に入るのが少なそうですね。「居直り数学のすすめ」とか良かったと思うんですけど。)
  数学受験術指南 (中公文庫)

・大学の数学(増刊号だったかな?)で、「問題を見たらすぐ解説を読む」、を繰り返す。

<哲学>
・竹田青嗣の哲学入門を読む。
  「自分を知るための哲学入門」 (ちくま学芸文庫)


「え、たったこれだけ?」 はい、そうです。(笑) ここまで色々エラそうなこと語っている割に、数学・哲学に関しての大学までのインプットなんて、こんなもんです。なので、それぞれ専門でやってる方からすれば、自らの土台としてもっている知識量は、基礎も基礎、初心者レベルです。前回、大学教育も工夫すれば、内容は簡単で良いのだ、と書きましたが、自らの経験から自信をもって言えます。 (単なるサボりの言い訳?)


以下、一応の補足。半分はヨタ話なので、勉強したい人は以上まででも十分です。

森毅先生の本は、中学生くらいの時に読んだと思うのですが、その中に、「数学を学ぶには、近所の山で遊ぶように、ただ近道をいこうとせず、あっちいったりこっちいったりするのがええ。初めは迷い迷いでも、あちこちで遊んでいるうちに山の中のことは全体が頭に入る。それを近道だけ通るように正解ばかり求めてたら、結局は何も分からず通り過ぎるだけや」(ホントにこんな感じの文体)みたいなことが書かれていた記憶があります。

実は、自分はずう~っと数学テストはダメダメで、高校時代は洛星高校という、京都にあるまあそこそこの進学校の中とはいえ、赤点連発・偏差値40台でどうせ出ても分からんからと木曜1限・2限と続く数学の時間は下宿先でサボりを決め込み、3限の体育から徒歩5分の学校に行く、なんて生活をしてました。これ、誇張抜きにホントの話。

ただ、モリキ先生の本のおかげで、出来ないにしても数学そのものは嫌いではなかったというか、アレルギーみたいなものはなく、なぜか興味が湧いた数列だけは徹底的に勉強したりしつつも、「近所の山」を探索することなく、別のとこで遊び呆ける日々でした。サボりなうえに高校生から下宿生活してたもんで。。

で、当然浪人。さすがにちゃんと勉強せなあかんなと、いつものごとく1周おくれて尻に火がついて、手に取ったのが「大学への数学」なわけです。この本、基本は難関大理系向きな本とされているのですが、難しい数学の問題に対するビューティフルな解答方法が、とても丁寧に書かれているわけです。ごちゃごちゃ汚い数式計算をさせるような解法ではなく、これこそ数学!(数学好きじゃないと分からんか)ってな感じの、切り口のキレイな解き方がたくさん載っているので、実は、計算とか大嫌いな数学苦手な人向きと言えます。

とはいえ、数学できない人間がいきなり挑んで解けるわけはありません。そこで、サボりマンらしくとてもいい方法を編み出しました!それは、 「問題を読み込んだら、即座に解答を見る。」 だって、解き方分からんのだから、ウンウン悩んでも時間のムダです。で、バンバン問題をこなしました。といっても、問題読んで、解説見て、なので、解けない問題の前で悩み続けるようなシンドさはありません。

「この問題って、こういうアプローチで解いたらええんか、なるほど。」「お、これ前見たのと基本同じアプローチでとけるな。」と、問題&解説をたくさん見てると、パターン認識が高まります。1週間くらいだったかで、ひと通り本を目を通したら、2週目は問題みてからさっとアプローチと大体の数式をイメージするようにしてから、やはりすぐに解説を見る。イメージがあっているかの答えあわせですね。

実際の計算をして完全に解こうとするとやはり時間がかかるので、「数学の問題へのアプローチ法」についてのパターン蓄積をつづけました。結果、現役時代、校内偏差値40台だったゴゴ君は、浪人生秋の京大模試で、全国3位・偏差値80台(ドヤ顔)という、まさにドラゴン桜もびっくりな結果をたたき出したのです。

なんかズルい、邪道じゃない?と思った人もいるかもしれませんが、振り返って考えても、この勉強法は「教養」として数学を学ぶ人には最良の方法だと、自信をもってお勧めできます。もちろん、ある程度はじっくり考える・問題を完全に解くということも必要ですが、「パターン認識」というのは、論理的思考力を高める上で非常に重要なカギだからです。

例えばコンサルがなぜコンサルとして活躍できるかと言うと、かなりの部分はパターン蓄積によるものと言えます。いわゆる地頭力、フェルミ推定的な思考力が重要と言われますが、これも詰まるところ、似たような問題をやってれば、多分誰でもそこそこ出来るようになります。その上で、たくさんのケースにあたることによって、さらにビジネス実践的なパターンをさらに蓄積しているのです。

とはいえ、数学の勉強はそれなりに時間がかかりますし、やはり学生時代じゃないとやり通すにはしんどいです。大学受験の時が、必要に迫られるので一番最適ですが、数学やらずに大学生になった人は、まだ間に合うのでぜひやってみてさい。社会人の人は。。。もし気合があるならトライしてみてください。


逆に、哲学の「勉強」は、ある意味超簡単です。上で挙げた「哲学入門」とか、その他気が合う入門書レベルの本を読めば、インプットは終わりです。社会人になってからでも、すぐにできます。ただし、哲学的思考というのは、哲学的なスタンスで思考を重ねることそのものなので、磨いていくのにとても時間がかかります。仕事や日常でいろんな問題にぶつかりながら、自分の身の回りのモノゴトを、表面的なところで終わらせずに、本質や価値観というレベルで見つめることを何度も経験しながら、おそらく死ぬまでずっと深まっていくものです。

なので、勉強するのに遅すぎることはありませんが、やはりできるなら、若いうちから哲学的な思考のスタンスを身に付けておく方が、その後のいろんな経験の中で思考を深められる機会が増します。
※関心あれば、西研先生のホームページなんかもおススメ。
  西研ホームページ


かなり長くなってしまいましたが、ゴゴログでいつまでも教育論をやりたいわけではないので、教育関係の話は全部吐き出して、いったんこれで終了です。

(この他、教育関係については、学校の組織マネジメントや文教政策のマネジメントという話も一応あるのですが、これはマネジメント論の中で、ひょっとしたら、いずれ。かわりに一冊書籍を推薦しておきます。
・岡本薫  日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

これを読めば、ゴゴが考える、学校組織や教育政策マネジメント関する課題感はカバーされてます。そのあたり関心ある方はどうぞ。)





本当は二回で終わると思ってたのですが、長くなってしまいました。。大学で教えるべき「教養」として挙げた中で、数学と哲学がどう役に立つのか?という話です。

まず、数学についてですが、数学というのは研究レベルの話は別として、一般的には、

・具体的なモノゴトを、抽象化したカタマリに分解する 
  (=○○をX、△△をYとする)
・あるカタマリと別のカタマリの関係性を構造化/モデル化する 
  (=XとYの関係式を立てる)
・モノゴトの前提が変化した時の結果を予測をする 
  (=Xを仮に2とした場合、Yは~)

というアタマの使い方を身に付けるための学問です。「数学」と聞くと、カッコ内に書いた方をイメージする人が多いと思います。でも、カッコの部分を除けて、あらためて見てください。「モノゴトを分類し、関係性を見つけ、違う場合の結果を予測する(あるいは評価する)」と見てみると、ほとんどの仕事で求められるプロセスと同じではないでしょうか?

つまるところ、数学というのは、多くの人がキライな「数の計算」を行うための学問ではなく、合理的にモノゴトの因果関係をとらえ、普通に起こるレベルの変化に対応する能力を訓練するための学問です。
(個人的な所感ですが、数学に親しんだ人は、数を扱わない事務屋的な仕事でも、理解力や処理能力がかなり高いことが多いです。いわゆる理系脳ってやつでしょうか。まあ、計算はできても。。って人もいますが。)

あと、最近はネットサービスの裏側で統計処理が使われていたり、まさに数学、といったモデルを、せめて概念レベくらいは理解できないとシンドイことも多いので、数学はやはり必須の教養だと思います。


さて、長くなってしまいますが、哲学についても一気にいきます。

哲学は、モノゴトの本質を深く掘り下げて、表面を見ているだけでは分からない「実体」をつかんだり、あるいは、実体・本質の底にある「価値観」の違いを認識し、どう理屈を重ねても相容れない矛盾や混沌、対立状況の中で、あるべき目的やスジ・義を失わずに考えを重ねられるようになるための学問です。
(なので、本当は難解な用語や文章を理解して「フツーの人」には分からない高尚な議論をするためのもの、ではないのですが。。)

上で述べたようなシチュエーションは、面倒な説明をせずとも、普通に仕事や日常の生活の中で日々発生していますよね。しかし、本質をつかまないまま間違ったゴール設定をしたり、噛み合わない議論の中で事が進まなくなる・中途半端な妥協案で終わるということは、話に尽きません。(そしてこれこそ、「ニホンの会社」がダメになった本質だと思います。戦前に高等教育を受けていた人達は、きちんと哲学的思考を教養として身につけていたようですが、今や失って久しい、という状況です。。)

最近は、グローバルに活躍する人材を育てるために英語教育に力を入れよう、ってな話が盛んに聞こえてきます。確かに、英語が出来るようになることは悪くない、やった方がいいでしょう。でも、英語が話せても、哲学的な思考力がない人は、異文化の中でリーダーシップを発揮することはできないと思います。


誰しも、英語は出来るけど手足にしかならない人材になりたい、育てたいわけではないでしょう。それであれば、英語の前にキチンと数学的な論理的思考力や哲学的素養を学ばせるのが、グローバルであろうとなかろうと、社会で活躍する人材を育てるために、大学が本来果たすべき責任だと考えます。

そしてまた、教える目的と方法を工夫すれば、普通の社会人が活用するレベルの内容は、数学も哲学もそんなに難しくする必要はないはずです。研究の先端を求めることやその道の研究者を育てることと、学部レベルの学問の内容は違ってしかるべきです。こうしたことを怠ってきたことが、「行っても役に立たない日本の大学」を生み出したのだと思います。

ただ、最近はリベラルアーツに力を入れる大学も出てきたり、そうした新進の大学が企業の採用担当から評価されたりといったことも、チラホラ聞かれるようになってきました。大学を潰すつぶさないの表面的な議論ではなく、こうしたあるべき高等教育をどう広く実現していくかに、政府も大学側も取り組んでいくことを願います。

前回、今の日本の大学では、学問という観点で個人が社会に出て役に立つようなことはほとんどない、本当に教えるべきは「教養」であり、カギは数学と哲学だ、とお話ししました。今回は、そのつづきです。

まず、「教養」とは何か、ですが、日本語で言う教養には、雑多な物事の薀蓄を知っていることだったり、知識を多く蓄えていることをベースとした、人間の品性に関わることだったり、色んな意味があります。

しかし、今回お話ししたい、大学で教えるべき教養とはそういうことではなくて、リベラル・アーツ、「自由な存在であるための知識・技法」のことを言っています。
(で、何でそういう意味での教養なの?というところは、後で説明します。「社会に出て個人の役に立つ学問、というテーマから、少し遠くなってしまうので。。ヒントというか、ほとんど答えは初回の記事を見ていただければ分かるかと思いますが。)

こうした、「自由な存在であるための知識・技法」という観点から考えた場合、数学・哲学の他に、ディベートなどの議論のための技術、そして現代的には、ITブログラミングや、デザインによる視覚的な表現技法を、「教養」として教えるのが適当だと考えます。特にプログラミングやデザインといった、「作って、見せて、納得させられる」技術は、スピードが求められるにも関わらず理屈にばかりにこだわり、結局はチャンスを逃すというありがちなワナから、個人が脱するための重要な技術だと思います。

ただ、それらの現代的な技術には、強力な「場を動かす力」がありますが、使えるシーンや相手、タイミングが限られます。(例えばITでもデザイン企業でもない普通の会社に勤める人なら、なんの議論もなく、いきなりプログラムを動かしたりスケッチを見せるだけでは、必ずしも人や組織を動かせないことは当然のことと理解いただけるでしょう。) やはり、ロジックやスジ・本質といった、根本的な「考える力」がどんなシーンでも求められるのであり、その「考える力」を磨くための材料として、数学や哲学はうってつけの学問なのです。

で、数学や哲学といった、小難しそうで回りくどそうで現実から離れたようなイメージの学問を学ぶことが、社会で活躍するための「考える力」に結びつくのか?ということですが・・・思ったより長くなってしまったので、また次回に分けさせてください。


しかし、整理するとこんなにかかるとは。。これだけの内容の下地を共有せずに、これまでFacebookなどで断片的に色々コメントしてたのかと思うと、ちょっと何とも言えない感じですね。勝手につぶやいてただけなので、誰かに迷惑かけてたワケではないと思いますが、独りよがりというか。。単に今回のまとめ方が悪いだけかもしれませんけど。もっと短くしろとか、分かりにくいとか、率直な感想あればお待ちしています。

(つづく)

ゴゴログ第二弾、引き続き教育論ですが、今日は角度を変えて、個人にとって役に立つ大学教育について考えます。

まず、少し極端な結論から言うと、今の日本の大学は、学問という観点で、社会に出てから役に立つことはほとんどありません。大学で講義をひたすら聞いて暗記したり板書を書き写したりして、一生懸命取った単位の内容は、よっぽど関連した専門領域に進むのではない限り、世の中に出てからの活用価値はほぼゼロです。

もちろん、大学卒、特に有名大学出というタイトルを得ることは総じてトクですし、学生生活の中で色んな体験や友人との交流を重ねることは人生においてとても大切な経験なので、「大学に行くこと」自体は価値があります。行けるなら、極力大学に行くこと方が良いと思います。

しかし、大学が本来提供すべき「学問」というコンテンツは、ほとんどが人生において役に立ちません。まさに、友人からノートを借りて効率よく単位を取得し、講義に出るかわりに自分の興味関心に時間を費やす方がよっぽどマシ、というのが日本の大学教育の現状だと思います。

では、大学では勉強なんかせずに遊んでいればいいのか?といえば、本来はそんなことはないはずです。現に、今の大学生は質が低い、役に立たないと叩かれているわけで、それは彼ら自身の問題というより、本来大学が提供すべき学問というコンテンツ・質が、日本では十分に足りていない、ということです。

(ちなみに、叩いているオトナも実はたいして偉くないのですが、知の国際競争の中で、社会人に求められるレベルが上がっているので、組織として大学生に求めるレベルが上がっている、という構造です。大学生諸君、キミ達は少なくともバカにされて卑屈になることはありません。バカにしているエラそうな人たちは、今の時代に生まれていたら、もっとバカだつたはずです。ここからどう生きていくかが勝負です。)

そこで、本来、大学が提供すべき学問コンテンツとは何か?ですが、ゴゴの意見は、「教養」です。最近は池上彰さんなどもそういう主張・活動をしておられるので、少しは違和感がなくなってきているかもしれません。じゃあ、「教養」って何よ?どうやって学ぶのよ?という話になるわけですが、長くなるので、そこは次回。カギは数学と哲学、とだけ予告しておきましょう。実学志向とは真逆の二大学問が、なぜ社会に出て役に立つのか・・・お楽しみに。

(つづく)

ゴゴログの記念すべき1本目のネタは、「教育」についてです。

「教育論」については、さまざまな切り口がありますが、まずは教育そもそも論から始めたく思います。教育議論をするにあたっての、一番の土台となるパートです。

で、まずは質問です。

義務教育を中心とする、「公教育」(=税金などを投入して、社会として支えている教育サービス)の、顧客と成果は何だと考えますか? 社会の中のシステムとしての教育を通じて、果たすべきミッションはいったい何でしょうか?



顧客は、個人個人の子どもでしょうか?それとも親ですか?そういう側面も完全に無視はできないでしょうが、自分は基本的にはそれは違うと考えています。公教育の顧客は、社会そのもの、あるいは我々みなさん全員、と考えるのが妥当です。 

少し漠然とした話にピンとこないかもしれませんが、義務教育は無償で提供され、その費用はすべて税金で賄われています。 つまり、我々社会全体が教育におカネを支払っています。逆に、子ども本人も親も、基本的には何の直接負担をしていません。

ではなぜ、そのようなシステムになっているのか? それは、現代社会のありようと深く関わっています。近代以降の社会というのは、封建的で身分が固定された時代とは全く違います。何が全く違うかと言えば、「個人の自由」という根本思想をベースに成り立っている点であり、そのために、個人個人が、自らの選択で自らの職業を選べるという可能性を、「自由な社会」を成り立たせるなかでの中心的な価値の一つに置いています。

ではでは、個人が自らの選択で職業を選ぶことを可能にするためには、何が必要か・・・?そう、そのために必要最低限な知識・能力のベースを、貧富に関わらず、あまねく提供するために始まったのが義務教育という社会制度なわけです。これがないと、実質的な自由は実現されず、不平等が社会の不安定性をもたらすだけの、名ばかりの「自由社会」になってしまいます。

つまり、公教育の成果は、個人個人に対して平等に、職業選択のための必要最低限の機会を担保することであり、ミッションは、その成果を通じて、自由で平等な社会を維持することなわけです。 



世に語られる「教育議論」においては、このもっとも重要な出発点、教育議論においておさえるべきスジを欠いたものがかなり多いことが、「教育問題」におけるもっとも大きな「問題」と、個人的には思えます。

子どもの自由・個性を過度に信奉する議論や、学校は親のニーズにこたえるべきとの教育=サービス業議論は論外として、学校選択制やはたまた教育バウチャー制が真面目に語られているのを見ると、立派な肩書きの論者に、「あまねく平等な機会を与える」という基本的な価値観を、どう考えているのかと聞いてみたくなります。

少なくとも義務教育は、どんなに改善の効率が悪くとも、一律に底上げを目指していくべきものであって、子どもや親の「個人的利益」をもとにした競争原理をもって改善を図るべきものではないと考えます。論点は、公教育における機会平等vs.個人の受益権ということになりますが、先にのべた公教育の意義を考えれば、答えは自明です。(教師間の評価をもとにした競争原理は、ある程度あってしかるべし、とは思いますが。)

とはいえ、進学率が向上し、義務教育だけでは十分な職業選択が難しくなっているという時代の進展に加え、幼少時からの受験を通じた私学進学や上位大学における親の年収帯の偏りなど、貧富の差による「教育格差」が現実のものになってきていることは、結構差し迫った問題だと思います。

財政問題にかかわるために簡単ではないものの、高校教育の実質無償化や奨学金制度の充実など、「自由な社会の維持」の観点から必要な政策にフォーカスして、政府は問題解決に取り組んでほしいと思います。


(参考)
ちなみに今回まとめた「教育と自由な社会の関係」的な考え方については、哲学論を専門とする西研(にし・けん)先生の著作や論述をベースとして理解を積み重ねた部分が多いです。多謝。
 ・哲学は何の役に立つのか (新書y (102))


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